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言葉と神
 
第18回  「無の世界」からの出発

加藤:本日は言葉の起源について考えて見たいと思います。もっとも、私たちは人間たちの間で言葉が生まれた時期を知らないのですから、そこでどのように言葉が使われ始め、流通していったかについては、ただ想像するしかないのですが。

鈴木:そうですね。

加藤:私の想像では、私たちの先祖はかつて全く動物と同じレベルで生活していました。ですから彼らの前に「世界」は、まだ現われていませんでした。彼らにはまだ、「自」と「他」の区別さえついていませんでした。このことは、人間の幼児の状態を観察してみれば、多少は類推できるかもしれません。生まれたばかりの赤ちゃんにとっては何もかもが未分明の状態であって、ただ、自分がそこから分離したばかりの母体との接触だけが頼りです。この状態では、恐らく自分自身と母体とはほとんど同じなのかもしれません。

鈴木:まったくそうでしょうね。

加藤:今日の人間の赤ちゃんは、ほとんど強制的に言葉に接することになり、否が応でも言葉を覚えさせられますが、言葉がなかった時代の人間たちが、どのように子供を育てていったのか、それを想像するには動物たちの保育の様子を観察する以外にありませんよね。声を発するサルであった私たちの先祖は、子供に声をかけながら、自らも言葉を作り出していったのではないか・・などと私は空想しています。

鈴木:そうですね。

加藤:しかしついに原始的な言語が現れ、その言語の発明ともに彼らの目の前に世界が現れ、自分が現れ、他人が現れたのではないかと思います。たとえば、「空」という言葉が発明され、それが仲間と共有されたとき、彼らの前に「空」が現れました。そして「空」から「雲」を区分できたとき、「雲」が現れました。おそらく言葉とは、世界の「区分」だったのではないでしょうか。したがって言葉がないということは、世界が個々の事物に区分されていないということではないでしょうか。それは単に、ごちゃごちゃした一体(カオス)なのです。そして、恐らくは目だって、区分しやすい個物から順に言葉ができていったと想像するのですが。

鈴木:そうですね。「(火傷しそうになって)アチチ!(熱い)」とか「(野獣に噛まれて)いてぇ!(痛い)」とか、具体的で、かつ必要度の高い身体的、生理的な現象あたりが最初からかな? と想像しますね。

加藤:いい点を指摘していただきました。「熱い」とか「痛い」という感覚は、私たち人間に共通のもので、これはおそらく動物たちにも共通のものですね。その根底にはDNAの共通性があるのでしょうね。私たち人間の手足には指が10本ずつありますが、こうした共通性は、言葉の共通理解を下支えしている、重要な生理的共通性なのではないでしょうか。

鈴木:ぼくたちヒトは、巨大な生物圏の進化系の中でのひとつのグループ、とりわけ突出した、極め付きの一大変種ではありますが、生物全体と共通性を土台にして存在しているし、また、ヒト同士での皮膚の色や多少の容貌の違い、皮膚における蒙古斑といった表面上の違いにも関わらず、死体解剖で皮膚を開けてみれば、その骨、内臓、機能などの中味では全く同じである、といった共通性の認識をまずすることが前提となりますね。

加藤:本当にそうです。私たちはこれまで、言語の意味的な偏差を中心に、いかにコミュニケーションが難しいか、誤解や無理解が不可避であるかを考えてきましたが、今度は逆のアプローチをしてみると、世界における国語や訛の種類がこれほど多様であるにもかかわらずじつは、たいがいの言語が大枠のところで「通約−通訳」可能であることに驚くのです。

鈴木:あなたが言われる、各人のヘッドライトの光の量や質は、言い換えると「文化」の違いがまず土台にあり、文化というものは、その社会の成立の歴史と連動して形成されるので、違って来るのは当然ですね。さらに、個人の資質が違いますから、その違いに輪をかけますね。しかし今度は逆に、ヘッドライトを持つという属性があるという意味では、「孫悟空が乗るお釈迦さまの手の平」としての共通性があるのだ、ということになりますね。そして、今、あなたが言われるように、言語が大枠のところで共通していて、通訳出来る同士であるというところが、ある意味、ひどく感動的ですね。人間の根っ子に連帯性があることですね。人間の崇高な精神部分も共通ならば、不正で卑怯なところも共通ですね。これは別のところでも言ったことなのですが、日本語で「袷を着る季節になった」という表現があります。これをそのまま「季節になった/アワセを着る」と通訳/翻訳したのでは、直訳/逐語訳という程度の低い通訳で、他の民族には真の意味、ニュアンスが伝わりません。これを「涼しさを感じる季節になった/裏地の付いた着物であるアワセに着替えるような」と意訳してはじめて、アワセを知らない他民族に伝えることが出来ます。このように、一口に通訳可能といっても、個々の現場では、それなりの配慮、裁量、変質が加わることもあるのですね。

加藤:その通りです。あなたは前回の対話の中で、いい映画が異なる言語の国々で共通の感動を与えるという話をしてくれましたが、あなたがおっしゃりたかった真意は、人類の生理的共通性ということではないかと思うのです。私はいまこの思考のプロセスを辿って「人間の生理的共通性が言語の共通の枠組みを生み、その言語の枠組みが人々の共通認識を可能にしているのだ」と考えたいと思います。ですから、世界の言語は見かけ上ひどく違っているのに大筋での共通認識が可能となるのだと思います。

鈴木:まったくですね。形而上の言葉はずっとずっと後の話しで、生理的言語が先ですね。零下何十度の氷の張った川に飛び込んで、冬を楽しめるロシア人でも、とがった石や鋭い木の切り株を踏み付けても、びくともしない足の裏を持つアフリカ人でも、「冷たい」「痛い」という生理は、われわれと同じくありますからね。

加藤:そうです。いずれにしても私たちの言語創造のプロセスは、世界創造のプロセスであったと私は考えます。私は、私たちの今日の言語の大半はいまだに「原始語」なのではないかと思います。私たちが「言葉ではいいつくせない」といって言葉の限界を嘆くようなとき、おそらく私たちの言葉の発達がまだ不十分なのだという気がしますね。それにまた、科学の用語はすべて新発見や新発明が行なわれるたびに、そのつど新規に作られなければなりません。科学を中心とする新発見や新発明の現場は、世界創造の延長なのではないでしょうか。この意味で、世界はある日、ある神によって作り終えられて、その後人間がこれを日々解明しているのではなく、世界は今日もほかならぬ人間たちの手によって日々創り続けられているのだと思います。

鈴木:あなたは今、三つのことを言われました。それらについて、ぼくの反応をお伝えしたいと思います。まず、一番目に言語創造のプロセスが、世界創造のプロセスだ、と言われました。これを例えばなしで具体的におぎなってみましょう。太古の昔、類人猿が人間にかなり近づいた頃、熱帯地方のある部族の頭上にギラギラする太陽が空に見えて、水も草木も枯れるとする。この時、「タイヨウ」という言葉、発音を誰か能力の高い個人もしくは影響力のあるグループが創造したとする。それが幾世代にもわたって伝えられ、全員が学習したので、そのあとは、誰かがさかんに空を指差して「タイヨウ!」「タイヨウ!」と言って、そのあと手をヒラヒラさせて、口からハッハッと息を出し、暑い!、暑い!という身振りを盛んにする、こういうことで、「太陽(は暑いね)」という気持/考え/概念を表現出来、相互交流が出来るようになったのだと思いますね。つまり、太陽というもの/実体は人間の気持/考え/概念があろうとなかろうと、すでに/アプリオリに存在している。しかし、人間たちが「太陽」という言葉を発明しなければ、それは心の中で「暑いな、くそ。アレのせいだ!」と思っても(「暑い」「くそ」「あれ」「のせいだ」という言葉もないので、そう思うことすら出来ないのですが)、口には出せないので、「暑い」「イライラする」という気持/思いを態度、表情でしか表せませんね。以上のシチュエーションから引き出されることは、あなたが、「世界創造」といわれるのは、いわば、言葉のあやで、「太陽」という「世界」は前から存在している、しかし、それを「太陽」という言語で命名されない限り、それは、「世界がない/存在しない」ということと同じだ、ということですね? だめ押しすると、「世界創造」というけど、それは、言葉のあやで、正確にいうと、「創造」ではなくて、「すでにある世界への命名/自己確認/自己承認/自己同一化」ということではないかと考えます。

加藤:やけに「言葉のあや」にこだわっておられますね(笑)。「言葉のあやだ」といってしまえば、あなたは納得されるかもしれませんが、ここではわざとあなたに逆らって「いや、言葉のあやではない」といっておきましょう。太陽、雲、空のように、具体的な事物で区分がはっきりしたものについては、それはアプリオリに存在していた、それに命名しただけだ。「命名」と「世界創造」とは別だというのは、分りやすい議論です。けれどたとえば、古代人にとって「成層圏」とか「オゾン層」というタイプの空は存在しませんでした。もっとも科学者はもっと別の区分で「空」を呼んでいるのかもしれませんし、これからさらに細かで、明確な区分ができるかもしれません。これほど単純なことでも、科学者が命名してくれるまで、私たちにとって未知の世界は一種の混沌に過ぎません。さらに、もっと専門的な内容になると、私たちにはまったくお手上げです。クワインという人は、「いったい誰が『ニュートリノには質量がない』を未開地言語に翻訳しようとするだろうか」といっています。私たちは科学的には、未開地に住む住民のようなもので、私たちにとって命名されず、区分されず、学ぶことが難しく、理解の範囲を超えている世界は、じじつ存在しない世界なのです。

鈴木:たった今、あなたが言われたことにも、ぼくの反応がありますが、それはあとのして、とりあえず、二番目にゆきます。あなたは「科学の用語はすべて新発見や新発明が行なわれるたびに、そのつど新規に作られなければならない。科学を中心とする新発見や新発明の現場は、世界創造の延長なのではないだろうか。この意味で、世界はある日、ある神によって作り終えられて、その後人間がこれを日々解明しているのではなく、世界は今日もほかならぬ人間たちの手によって日々創り続けられているのだと思う」と述べられましたが、これについても、ぼく流に言えばこうなります。実体としての世界はすでに何十億年前からアプリオリに存在している。しかし、人類はその科学的能力によって、その実体を次々に部分的に解明して来ている。その段階その段階での、部分的実体は新しい言葉で命名/自己確認/自己承認/自己同一化されて来ている。例えば、古来から人間は歳をとればボケルひとがいてもおかしくない、と思われて来た。しかし、科学者たちが「アルツハイマー症候群」を発見すると、それは「ボケ」という命名/自己同一化の一部分が新しい局面を迎え、「アルツハイマー症候群」という命名/自己同一化に変更される。これを、あなたは、「世界創造」といわれるが、これもぼくに言わせれば言葉のあやで、命名のための言語が「創造」されただけで、「ボケ」も「アルツハイマー症候群」も加齢現象としてアプリオリに存在していたもので、それを、人類が部分的に「発見」したのだと思います。となると、ぼくは、「神」という言葉をあくまで、比喩として限定的に用いるだけの話しですが、「世界はある日、ある神によって作り終えられて、その後人間がこれを日々解明している」という立場に立たざるを得なくなります。例えば、数学で「発見」されなくとも、数学の要素から構成されていて、学者が認識しょうと、しまいと「前から存在する事柄」があります。ひまわりの黒い種が、時計回りと反対回りに見事に美しく旋回してゆく原理や、ホラ貝の美しいヒダの原理も、位相に関する幾何学で解明されるそうです。ヒトの身体の各部分の比例は、美しいとされる黄金比と大いなる相関関係にあるそうです。ヒトの脳の細胞間のやりとりは電子のプラスとマイナスの相互作用だそうだし、平均率以前の音階も以後の音階も数学だし、星の運行も数学ですよね。優れたテレビ番組でやってましたが、やがて素数の原理が解明されると、それは、円周率と似た関係にあり、太陽が何故真ん丸の円なのかとか、宇宙の原理が解きあかされるそうです。

加藤:あなたは、「実体としての世界はすでに何十億年前からアプリオリに存在している」といわれました。私には、それを自信を持って断言する勇気はありませんし、かといって否定する自信もありません。分らないからです。またあなたは、「世界は作り終えられたものであって、私たちはそれを解明しているだけだ」という立場をとられました。天文学者の小尾先生がいつぞや「観測の限界が宇宙の限界」といわれたことがあります。それは、おそらく観測=認識に必要な光や電波が私たちに届かない限界がある、という意味だと思います。だからその限界を超えて何かを断定しようとすれば、あきらかに臆断と事実を混同することになってしまいます。私は、じつは私に理解できる範囲の世界しか持っていない、それ以外の世界は私には存在しないのだと告白します。

鈴木:ハハー。ぼくは今、遠回しにあなたから批判されたように、ほんとうには碌に、なんにも知らないことを知ったかのように断言する悪いクセがあることを学びました。伝聞情報を語る時には「そうらしい」と言うように、これからは気をつけましょう。さて、たった今、あなたは重要な指摘をされました。これも、あとで検討させて頂くとして、話しを前に繋ぎます。さて、三番目に、あなたは「私たちの今日の言語の大半はいまだに原始語なのではないかと思う。私たちが言葉ではいいつくせない、といって言葉の限界を嘆くようなとき、おそらく私たちの言葉の発達がまだ不十分なのだという気がする」といわれました。このことについてのぼくの考えを述べようと思います。まず、確かに「言葉では言い尽くせない」という表現は巷でよく耳にします。しかし、その殆どは、次ぎの言葉を探しているための時間稼ぎのものであったり、自分の語彙不足や言語表現力の不足を自己正当化するためのものであることが多いのです。次に言葉を、あえて二分すると、実用的、科学的、論理的な分野で主に用いられる言葉と、感情/気分/情緒/喜怒哀楽で主に用いられる言葉があると思います。で、前者については、現在、それほどの不自由さ、あなたの言われる、原始語性はないのではないかと思います。実業界、政界、科学界などでの自己説明、論理性の表現などは、今ある語彙、論理法、レトリックで十分いける筈ではないでしょうか。しかし、後者についは、相当に現状で十分だとは思いますが、前者にくらべれば、やはり自己表現上、不便さ、限界性はあるかと思います。そして、その原因は、それらの言葉が用いられるフィールドが、いわば「魂」のフィールドにあることに原因があると思います。「魂」という概念は、あらゆる民族に存在するので、それが普遍的、実在的であることは推察出来ますが、それが自然科学的手法では証明されません。つまり、それは在る、という個人的信念、確信の上によって立っています。この時、このあるひとにとっては確実なものでも、他人には必ずしもそうでない、つまり、相互コミュニケーションが担保されていないフィールドでの、言語による交流は時に難しくなります。天才シェークスピアが百万語を湯水のように連発して、感情/気分/情緒/喜怒哀楽を表現してくれても、すべてのひとのそれらを表現してくれたか、ということになると、ある意味、全くそうではないのです。例え舞台の上で、言葉が饒舌に早口で乱射され続け、舞台の真実というイリュージョンが辛くも成立したとしても、この世の片隅で、無名の一人の娘が無責任な男に失恋し、逃げられ、妊娠させられ、絶望してさめざめと泣き、胸を掻きむしる想いで苦しんでいる実態を、言葉で完璧に代弁するのは至難の業でしょう。こうした時、ひとはこの苦しみ、この悲しさは到底「言葉では言いつくせない」と言います。しかし、それは「魂」の持つ、非限定性、決して捕まえたり、表現出来ない固有の性格から来ているのであって、言語発達段階での原始性とは違うような気がするのですが。以上、あなたの言われる「世界の創造」とは言葉のあやであり、その時の「創造」とは、「命名」が実態ではないだろうか、と言いました。しかし、「命名」を「創造」ということは詩的なレトリックなのだ、という言い方も出来ます。であるとすれば、ぼくは詩的レトリックは常々用いがちの人間なので、その美しい言い方を容認します。ぼくはそれほど野暮ではありません。ハハハ。

加藤:感情を表現する言葉に原始語が多い、というあなたのご指摘は納得できますね。しかし、科学用語に原始語が存在しない、とはいえませんね。たとえば、フランス革命の当時、科学者たちは「物が燃えるのはフロギストンという物質が逃げ出す現象のことだ」と考えていました。「フロギストン」は、当時としてはもっとも新しい科学用語だったのです。しかし間もなくこれは原始語の仲間入りをしてしまいました。今日の科学者はこれほどの過ちをしないかもしれませんが、用語の定義はたえず見直され、無数の用語が毎日のようにスクラップとなっています。あなたがご指摘の「ボケ」「痴呆症」なども、スクラップ化しつつある言葉ですね。ある意味では科学の世界は、用語がもっともすみやかに原始語の仲間入りをする世界ではないでしょうか。

鈴木:さて、あなたへの取りあえずの反応の三つが終わったので、話しがすこし戻りますが、今回、あなたが提案されている命題の本質について、もう少し反応させてください。第一点ですが、あなたは「私たちの言語創造のプロセスは世界創造のプロセスであった」と述べられましたね。ぼくはそれは言葉のあやだと思うので、あくまでもその言葉を用いるならば、次のように言い直したいと思います。「私たちの言語創造のプロセスは、人間にとっての認識世界の創造であった」と。これなら、ぼくにとっては矛盾が起きませんが?

加藤:いいですねえ。それでけっこうです。すべての世界は「人間にとっての世界」なのですし、そのことは「人間にとって認識されていないものは、まだ世界でない」ということを意味しますから。動物の感情や思考について、私たちは「自分の思考の枠組みで解釈してはならない」ということを確認したのですが、私は自然界についても、「自分の知識の枠組みを自然に押し付けてはならない」と思うだけなのです。

鈴木:第二点、あなたは「古代人に成層圏、オゾン圏、ニュートリノなどのことを言葉を使って伝えられない/翻訳できない」と言っておられます。それは彼らがその言葉をまだ創造していないからだというわけですね。同じことをぼくの言葉でいうと、彼らは、それらについて現代的な知識がないから、認識できない、認識できないから説明されても分らない。とこうなります。ぼくは、いきなり創造という前に、知識/認識という前提が満たされているか、いないかの点に重点を置きたいと思うのです。そして、ぼくがさらに駄目押ししたいのは、彼らが知ろうと知るまいと、成層圏、オゾン圏、ニュートリノは彼らの住む現実世界に存在していたという事実です。つまり、世界はすでに在ったと。

加藤:あなたが「知ろうと知るまいと存在する」とおっしゃるとき、あなたは自分がすでに知っていることを前提にする主知主義的な循環論法の立場をとっておられるように見えます。それは金庫の中に格納されてしまった鍵を使って「金庫を開ければ・・」といっておられるように聞こえて仕方がないのですが。あなたが全人類に対してその存在を保証される世界は、すでにあなたがご存知の――今日における最先端の知識の枠組みを前提にしているのです。これに対して私は言葉=概念の成立のプロセスに応じてしか、「人間にとっての世界は存在しなかったし、これからも存在しない」といいたいのです。

鈴木:なるほど。第三点、あなたは「自分にとって理解できない世界は存在しない世界だ」と言っておられます。これは常々あなたの持論ですね。今回、ぼくが「この現実世界は何十億年前から存在していた」と言ったことに対して、「それをハッキリ分るのか?さらにその世界の前や後のことについてハッキリ自分で分っているのか?」「自分で分らないことについて存在していた、のように断定するのは、事実ではなくて、たんなる憶断ではないのか」といわれました。これについて反応します。一体に、ぼくたち現代人たちの会話、文章の多くは「伝聞/孫引き」によって成り立っています。特に物理学、生物学、天文学、医学、数学、通貨、金融、経済理論などをはじめとする専門分野の概念や用語は、とうてい一人の門外漢が理解出来るものではありません。思想上、潔癖な立場に立てば、それを口にし、書くことはすべて憶断になります。すなわち、いい加減に推し量って決めること、根拠のない推量による判断となります。なぜなら、分らないことを分った振りをしてそうするのですから。しかし、それでは、日々の新聞、雑誌、出版の紙面、報道時間の半分は白地や沈黙にしなければならないでしょう。しかし、それが憶断として糾弾されないのは、当該部門の専門家の意見をでたらめではない、と社会全体で相互信頼をしているからです。事実、あなたが遺伝子、成層圏、オゾン圏、ニュートリノという用語を先程から口に出されること自体が、そのことを雄弁に物語っています。仮に一歩譲って、あなたがそれは知っているから出したのではなく、話しの段取り上、使っただけだ、と言われるとしましょう。しかし、あなたも激痛に襲われれば、医者に駆け込み、注射を受け、薬を飲み、あるいは手術を受け、救われるでしょう。しかし、あなたは、その薬、注射液、手術の中味について何も知らないのです。かりに説明されても、わからないまま、ああ、そうですかと頷くしか出来ないでしょう。ぼくたちは高層マンションに住み、映像、音響、エアコンを使いこなし、航空機や新幹線に乗り、パソコンを使い、書物を読み、電話を掛け、レストランで食事し、飲酒します。この基礎には、建築学、地震学、土木・都市工学、映像・音響工学、空調工学、天文学、気象学、航空工学、車両工学、電子工学、パソコン工学、電気工学、印刷工学、通信工学、農・林・漁業学、醸造化学などの、難解にして高度で、分らないことの集積の上で暮らしています。しかし、不安にならないのは、相互信頼関係があるからであり、それらの分らないことに発言や推量をしても、不遜ではないという不文律があるからです。今では誰でもサブプライムローンは問題だね、などと言いますが、本当の仕組みは複雑過ぎて分らないのです。しかし、それは「認知された情報」として、不理解の上での使用を許されるのです。いかがでしょうか?

加藤:なるほどね。あなたのおっしゃることはわかりました。それに、言葉をお互いによく理解できないままに使っている、ということは、言葉の意味の偏差を拡大する要因にもなっているわけですからね。ところで、ここまでのところ私たちは主として具体語を中心に話をしてきましたね。空、太陽、雲など・・。ニュートリノに至っては、原始人である私には分りませんが、一応具体語の仲間に入れておきましょう。これらの具体語の発明について、あなたが「それは世界の創造ではなく、単なる命名に過ぎない」といわれた件について、あなたの解釈とご趣旨を十分に理解したつもりです。しかし概念語の領域に入ると、「命名=世界の創造」という色彩が濃くなるのではないでしょうか。それは抽象度を増すほどそうなるように思えます。たとえばスコラ哲学者たちが夢中になって議論した「三位一体」「恩寵」「予定調和」など。それにまた私たちが用いる「愛」「魂」「道徳」「芸術」「・・主義」などの言葉、これらの言葉はそれ自体が「世界」を形成している概念そのものですよね。これらの概念は人間の言葉とともに形成され、了解され、共有されてきたものであって、言葉以前にそれらの世界があったなどとは、よもや主張されませんよね。

鈴木:あなたが、今、言葉を具体語と概念語とに二分類され、概念語については、それは命名ではなく、創造ではないか、と言われました。これについては、あなたの主張を全面的に認めたいと思います。確かに、あなたが出された例、「三位一体」「恩寵」「予定調和」「愛」「魂」「道徳」「芸術」「・・主義」などの言葉や概念は、言葉の命名以前にそれらの世界はなかったですからね。このぼくの肯定について、若干のぼくの持論を開陳させて下さい。ぼくは、概念語でも二つあり、従来からこの世にあった概念語、たとえば、「同志愛」などは昆虫のアリやハチにもありますが、それを<自然的概念語>と呼び、それとは別に人間社会にしかない概念語を、<文明的概念語>と呼びたいと思います。

加藤:「同志愛」がアリやハチにもあるというのは、あなたらしいご発言ですね。この件については、ここでは「人間の思考の枠組みを動物に押し付けるべきではない」という私の先のテーゼを繰り返すにとどめます。

鈴木:ぼくは人間の特性は、文明を生み出したことと思います。ほかの生物にはありませんから。ぼくは、この文明の特徴を四つの寓意から引き出したいと思います。まず第一は、ギリシャ神話の中の例の、人間に火をくれたプロメテウスの寓意です。他の生物は火を用いません。火は最大の道具であり、道具を使うのは人間だけです。人間は火で生肉を加工して食し、暖をとり、産業を作り、文明を生み出しました。これらは、自然の中には無く、反自然行為です。つまり、文明的行為です。

加藤:なるほど。自然の中にないものは「反」自然的なのですね。

鈴木:「非自然」と言ってもよいのですが、まぁ「反自然」で行きます。第二は新約聖書、創世記3−7の寓意です。エデンの園の女と男は、蛇の入れ知恵で、神から禁じられていた木の実を食べて、知恵が付いたので、自分たちの全裸姿を恥じ、いちじくの葉を腰に巻きました。つまり、性的羞恥心の発生です。他の生物は性的羞恥心がありません。性本能にしたがって性行為をします。人間だけが、性交する相手以外の他人に性器や性行為を隠します。これは反自然的行為で、文明的行為です。あなたはフロイトを認めておいでではないですが、ぼくは認めます。性的行為や性器の露出を類人猿ボノボのように、羞恥なく、日がな一日、自由に出来るなら、人間は偉大な芸術や文明を生み出し、発達させなかったでしょう。性という最も愉悦的、快楽的で、渇望すべきものをひどく禁忌項目にしたので、フロイトのいうリビド(人間の行動の規定となる根源的欲望)が生じ、それが芸術や文明として昇華(性的な欲望や願望が、高尚な芸術や宗教などの分野に転じ働くことする)したと信じます故に。

加藤:なるほど。

鈴木:第三はヨーロッパの12〜15世紀にかけて、キリスト教教会の腐敗に対抗して各地に出て来た、いわゆる異端思想、その中でも、カタリ派の思想の寓意です。天上世界は神と善が支配するとしながらも、人間の肉体と現世は悪魔が作った悪しきものとします。また、キリスト教の中で抹殺されたグノーシス派の思想の寓意も同じです。最初、善なる神が天界で霊と天使とで平和に暮らしていたが、天使の一人ルシフェルが神に反抗心を抱き、一部の天使たちと神に造反し、天から中間界に落とされ、悪魔と呼ばれるようになり、悪魔は下界を取り仕切り、神は人間を下界に住まわせたので、人間はいつも悪魔の影響を受け続け、苦しみの人生となる。これらの考え方は善の思想の対極の悪の思想であり、自然界には己の存在に否定的な考えは存在しないから、反自然的、文明的思想です。
自分の愛する子どもを拉致されたひとや、テロで愛するものを殺されたひとや、地雷をうっかり踏んで足をうしなった子どもや、地下鉄サリン事件で寝たきりになったひとに対して、善なる神は決して人間を見捨てない。あなたの災難は、神があなたの魂を鍛えるために与えた試練なのだ、と言って納得させられるものでしょうか。こうした、人生の不条理において、神が悪を征伐出来ないのは何故か、という疑問が出た時、悪魔の概念はどうしても必要にならざるをえないわけです。

加藤:なるほどね。

鈴木:第四はヨハネによる福音書1−1の寓意です。「はじめにことばがあった。ことばは神であった。(中略)すべてのものはこれによって出来た。(中略)このことばに命があった。この命は人の光りであった。光りは闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とあります。ぼくは聖書の成立史を学んだわけではないし、この日本語訳のもとの英訳、さらにラテン語、さらにヘブライ語、あるいはギリシャ語の原文を知らないので勝手に推察するだけですが、ヨハネは恐らくユダヤ人でありながら、イエスを殺したユダヤ人を憎む、地中海沿岸地域に住む知識人として、ユダヤ教から優位に立つために、当時、思想の最高峰にあったギリシャのロゴスの概念を借用したのではないかと勝手に思っています。ロゴスは理念、神、言葉などを包含するので、ヨハネの文は言葉と神と命と光という最高観念を融合して、自分の世界創造観を決定的に誇っているようにも思えます。ユダヤ人の最高聖典、旧約聖書の創世記1−1には、「はじめに神は天と地を創造された。(中略)神は光あれと言われた。」とあり、神と光はあるが、言葉が抜けていて、ヨハネの文より弱いのです。つまり、ここでひとは言葉を意識し、文明的存在となったのです。

加藤:なるほど。神が「光あれ」といわれた。というのは、すでに言葉の存在を前提にしていますから、かりに「光が始元である」という主張があるとすれば、それは循環論法的な矛盾ですよね。それにしても、ヨハネのコメントはもっと掘り下げる価値がありますね。

鈴木:こうした1。火の使用/道具の使用/産業の勃興という要素 2。性の禁忌という要素 3。悪/悪魔という観念の創造という要素 そして、4。言葉の意識/命名/あなたが言われた創造、という四つの要素は、自然界にはない要素なので、反自然、文明の概念なのだと言いたいのです。つまり、人間は他の動植物、生き物が住んでいる自然の秩序に反し、文明という人工的な反自然の秩序を構築し、生きている特殊きわまりない生き物だということです。地球上の生き物はすべて進化しつつあるので、もし、猿が今の人間のレベルまで進化したら、同じ定義を猿にするかも知れませんが、それは今のぼくらの視界には入らないので、そこまでは話は伸ばさず、今のヒトのことだけを検討の対象にすることにします。

加藤:どうぞお続けください。

鈴木:そこで、あなたがさきほど言われた人間が作る概念語/文明的概念語の問題に戻りたいと思います。あなたはいろいろの概念語を例にあげられましたが、ぼくは<現代文明>という名の概念について考えて見たいと思います。人間の側から見ると、近・現代の封建制の非人間性、産業資本主義の勃興から来る非人間性に歯止めをかけつつ、幾多の戦争・戦乱、全体主義の圧制の中でも、ひとびとはヒューマニズムを大切にしようと願い、先進国では人権も確立し、現代文明は爛熟期を迎えているかと思います。ひとびとは今、政治、産業、経済、医療、文化、芸術、風俗、科学、スポーツ、趣味などのあらゆる分野で、際限なく追求力を発揮し、また楽しみを味わっています。しかし、一方、これを自分が自然になった積りで見ると、人間たちは日々、幾千万、億の鶏、羊、豚、牛、川、海洋の魚、山野の木々草花、果実などを、大袈裟に言えば虐殺/ホロコーストして、食べたり、利用したりして文明を維持しています。ひとの命は地球より重いという美しい言葉も、よく考えると、その命とは人間の命だけのことを言っているのですね。地球上の自然の中で、唯一、反自然の存在である人間の文明は核戦争、環境汚染とか言った原因で、必ずいずれ自己崩壊し、消滅する運命にあるように思います。しかし、その後も、地球と自然の動植物などは邪魔者が消えてホッとして、マイペースのゆっくりしたペースで生存してゆくような気がします。<滅びの美学>にはつい共感してしまうたちなので。ハハハ

加藤:(笑)あなたの理論展開にはいつも驚かされます。

鈴木:現代文明で、ぼくが特に興味を覚えるのは、生命倫理のことです。比喩的な意味で、現代の神は自然科学者だと思います。まさか、人間が遺伝子のことをここまで解明するとは思ってもみませんでした。比喩上の神は苦笑しているか、顔面蒼白になってうろたえているかは分りませんが、ぼくは科学者の疾走には常に拍手、肯定してしまいがちな者です。もっとも、宇宙や深海で、カプセルの中で生殖、増殖し、人生を送るなんぞは真っ平ご免ですが、ハハハ。さて、その生命倫理ですが、<自然における人間以外の生き物の生と死>とは<寿命の中の生>と<天敵に食われる死>と<寿命が尽きた死>の三つだと思います。しかし、一方<文明における人間の生と死>は、従来からの<寿命の中の生>に加え<寿命を人工的に延命させた新しい生>を実現させました。しかし、<新しいタイプの死>については大変混乱しています。<妊娠中絶手術による胎児の死>はすでに認知されていますが、文明人が生きて行く上での考えを、自然状態の胎児よりも尊重した新しいタイプの死ですが、ぼくはこれに賛成します。<慈悲死>は、<もうこれ以上、生かせても本人のためにならないので与える死>、<尊厳死、安楽死>は<もうこれ以上生きていても、辛く、苦しいから死なせてくれと頼む死>、<脳死>は、<心臓死を待たずに死と認定してくれれば、臓器移植で他人を助けられる死>ですが、古い倫理の側は、なんでもかんでも生かし続ければそれで正しいとし、それらの新しいタイプの死、個人の意志を尊重した死をなかなか認めようとしません。ヒューマニズムという名のいわば全体主義/ファッシズムではないかと思い、ぼくは新しい死の実施に賛成します。<自殺>については、文明の中で昔からあることですが、これは<生きていて辛いから死ぬと自己決定した死>ですが、これを間違っている、という言える論拠、哲学はどんなに探してもないと思います。哲学的レベルで言えば、自殺を容認すると、国家社会が、その構成要員を失い、国家存亡の危機に瀕するからという国家社会のエゴイズムだと思います。自殺希望者にはよい薬を与える制度を作る方が理にかなっていると思います。死について以上、いろいろ言ったのは、言葉/概念の持つ本性を現実に適用して検討してみたかったからです。但し、死については、論理/哲学の視点以外に本人以外の人間の「情」の問題が、別につきまといます。「情」の視点からは、死を冷静に考えられずに、「痛ましいもの」という否定的な、情緒的な価値判断が加わります。

加藤:なんともユニークなお説です。しかしあなたの「人間の文明に関する論説」については、また主題を改めて論じることとし、ここでは立ち入らないことにしましょう。私としては言葉の起源と発達についてもうひとことだけいいたいと思います。その一つは、この世界は人間たちの言葉の発明、発達とともに拡大し、精緻化し、発達してきたということです。人間はさまざまの道具、概念を発明しましたが、それは同時に言葉の発明でもあったのです。また、もう一つは個々人も言葉とともに成熟するということです。つまり、個々人にとって言葉を知ることは世界を知ることであり、それは「大人になること」であるということです。持っている語彙が多くなるということは、例外は多々あるにしても、人間としての知的な進歩であるということです。そして言葉の意味を深く理解し、相手の語る言葉をその文脈においてとらえ、理解できる人を教養ある人というのではないでしょうか。

鈴木:まったく、そうですね。

加藤:それでは、この続きはまた次回。

   
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