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言葉と神
 
第19回  なぜ異なる言語で了解し合えるのか

加藤:前回はあなたのおかげで、議論が大いに盛り上がりました。また、あなたのユニークな文明論をお聞きできたことは幸いでした。今日はこの続き、どうして人間たちが言葉によって了解し合うことができるのかについて、もう少し深く考えてみたいと思います。というのも、これを考えることで、どうして私たちは言葉による争いを止揚でき、どうしたら(あなたはお笑いになるのですが)世界平和を実現できるか、その道筋を発見できるのではないかと思うからです。

鈴木:いや、世界平和は大切ですから、ぜひ、お進め下さい。

加藤:私たちは前回、世界の発見は言葉の発明によると考えたのですが、この場合、世界は言葉の創造とは、おそらく世界の区分であったと思われます。それは世界から注目すべき一部を取り出す作業であり、「区分化」「文節化」であったと思われます。このさい、区分しやすいもの、誰の目にもはっきりと目に見えるものが、優先的に取り出され、命名されていったのだと思います。そして、1人の人間が共通の1単位であること、人間には2本の手があり、10本の指があることなどが言葉によって意識され、明確となったのだと思います。ですから、このような具体語、しかも人間の生理に関係する語は、世界のどの国語においても共通の土台を持っているのであり、相互理解を可能にしているのではないかと思います。

鈴木:区分化、具体語、生理語がキーワードですね。

加藤:おそらく国語や文化のちがいによる言語の偏差が大きいのは、私たちの生理からかけ離れた抽象的な事柄、それにたとえ具体語ではあっても、事物の区分がはっきりしなかったり、極大、極微の世界のように、肉眼では確認できないような事象の定義・・これらに関しては認識力の程度による言語の偏差が生じやすくなるのだと思います。たとえば、クオークなどという「モノ」は、専門の学者にはその実体を確認できるものでしょうが、原始人である私にはさっぱりわけのわからない、要するに存在しないものです。

鈴木:抽象語、区分の難しい語が次に来るわけですね。

加藤:そうです。このようにして、抽象語、概念語において、おそらく国語による意味の偏差がどんどん拡大するのではないかと思います。われわれは以前にもこの問題を話し合いましたが、「神」という語の意味は西欧人と日本人とでは大きく違っていますね。世界の深刻な争いの背景には「神概念」の違いがありますよね。それに「正義」「民族」「歴史」などという語も抽象度の高い言葉ですから、これらの概念の偏差が、真の相互理解を妨げてしまうということがあるのではないかと思うのです。そこへもってきて各人のヘッドライトによる世界認識の違いが重なるのです。

鈴木:まったくですね。

加藤:ここで、ちょっと角度を変えて「言葉=世界」を生み出した人間の特性を考えて見たいと思います。今ここに、地面に二本の棒杭が立っているとします。この棒杭をかりにA、Bとします。一匹の犬が鎖で棒杭Aにつながれていますが、その鎖はなぜかもう一方の棒Bに引っかかっています。A側の離れたところに餌がありますが、犬は餌に近づくことができません。なぜなら、鎖がBの棒に引っかかっているからです。普通の大人の人間であれば、いったんBの棒の向こう側を回ってくれば、鎖が伸び、餌にたどり着けることが分るのですが、犬にはどうしてもそれが分りません。ただ、餌にたどりつこうとして、いつまでも棒杭を揺さぶり、空しい足掻きを続けるだけです。動物心理学者がこれについて何というか私には分りません。それに単純に「それはきみ、犬の知恵が足りないんだよ」という人もいるでしょう。私はこれを「言葉」の問題ととらえます。

鈴木:ほー、興味ありますね。ところで、あなたが具体的な例を出して言われることは珍しいですね。それをされると、とても分りやすいです。

加藤:人間はまず、この状況を「解決すべき問題」として、他の事象から文節化します。また自分が置かれている問題を「棒杭」「鎖」「餌」「長さ」などの要素としてとらえます。事象の要素化はすべて「言葉」によって可能となります。それはむろん初期の人間の状態では、現在私たちが使っているような「棒杭」「鎖」などという要領のいい、洗練された名前ではないかもしれない。しかしそれは何らかの形で区分され、命名されます。区分され、命名された瞬間にそれが彼の世界の中に入ってくるのです。これに対して、犬はただ空腹と本能によって餌にひたすら直結されているだけあり、いつまでたっても「問題」も「世界」も出現しません。

鈴木:なるほど、実に巧みな例と説明ですね。

加藤:私はここで動物と人間の、大きな分岐点を発見できるような気がします。それはひとことでいえば「注意」ということです。むろん動物たちもすばらしい注意力を持っています。たとえば餌を見つけたり、異性を見つけたり、天敵から身を守ろうとするときの注意力です。これは例の鎖につながれた犬が餌にひきつけられているときの注意と同じで、本能と同義のものです。これに対して人間の注意は、「これは、一体どうなっているのだろう?」という注意です。対象から少し身を引いて、対象を観察し、「原因」「仕組み」を見出そうとする注意です。この注意を働かせるとき、人間は自分に、言葉で問いかけています。

鈴木:なるほど、動物も人間も、ある目的を意識するということでは同じなのですね。
そして、その目的の達成のために、動物は「なになにをしたいなぁ」と「注意」はする。しかし、そこまでが限界なのですね。しかし、人間は「注意」することまでは同じだが、 その先、「対象からいったん身を引いてみる」「対象を観察する」「原因を考える」「仕組みを考える」わけですね。

加藤:そうです。ところで「原因」という語も、「仕組み」という語も、抽象語です。だから、この語を発することができるようになるまでに、人類は半人間として、ひどく長い旅をしてこなければなりませんでした。ごく初期の半人間たちは、動物たちと同じように長らく「因果関係」のない世界に住んでいたのです。というのも、因果関係が意識されるには、「AとBとの間にはつながりがある」ということを示す語、「関係」とか「つながり」を意味する語が見出され、用いられなければならなかったからです。処女神アルテミスが月の女神であるのは、「月のみちかけ」と「処女」との対比と無縁ではないでしょう。これは「つながり」の文脈です。ある学者は「古い母系社会は、人類がまだ女性が妊娠する仕組みを知らなかった時代の、いわば女性による産出が神秘であった時代のものであり、父系社会は、妊娠の原因を確定できるようになってからのものである」といっています。

鈴木:なるほど、動物には「因果関係を意識することが出来ない」、なぜならば、「AとBの間の関係とか、つながりとかを意識出来ない」からなのですね。「つながり」の例としては、古代人が「月が満月になると、性交経験者が妊娠するという連想を持ち、逆に月が細い三日月になるのを見て、処女を連想した」ことから、ギリシャ神話では月を処女のシンボルとみたわけですね。面白いですね。また、「子どもを体内に授かれるのは女の力によってこそ」という認識が母系社会を生み、いや「子どもを授ける力は男性が発射する体液にこそある」という認識が父系社会を生んだ、というのも実に面白いですね。

加藤:いや、月(アルテミス)と処女の関係は、おそらく安定した生理的周期と月の満ち欠けの周期の一致ということではないかと思います。やがて人間たちは、「これは、一体これはどうなっているんだ?」という観点、つまり因果関係の観点から問題に取り組めるようになりました。そして「注意」と「観察」という人間を特徴づけている悟性のはたらきが、動物たちと人間の群を大きく引き離したのだと思います。私の考えでは人間的な「注意」とは、それに関心を持ち、他のことはさておき、その前で立ち止まって見つめることであり、「観察」とは、対象を組み立てている要素を自分なりに分解し、区分することなのです。

鈴木:なるほど、動物と人間を大きく分けているのは、「注意」の力、「観察」の力が大きく違うことにあるのですね。

加藤:その通りです。因果関係を知りたいという、人間固有の、やむにやまれぬ欲求が最初にたどり着いた最初の結論は、ほんの少々の科学と大きな宗教でした。原因としての神の仮説がどれほど彼らにとって魅力的であり、強力なものであったか、想像に余りあります。コントは「神学は科学の母である」といっていますが、これは、科学と宗教が同じ質問、「これは、一体どうなっているんだ?」から出てきた、という意味でしょう。

鈴木:まったくその通りですね。動物は目の前のことには注意を向け、関心を持ち、問題あれば、解決しようと努力したでしょうね。ある場合には、「対象からいったん身を引いてみる」「対象を観察する」「原因を考える」「仕組みを考える」の四条件さえ満たしたことでことでしょうね。現在でも、映像によれば、ある種の鳥は、幹の中で動く幼虫の音を探し、いると分ると小枝をちぎって来て、嘴で上手に幹の穴に差し入れ、幼虫を引きずりだし、食べますね。また、ある種の猿も、幹の中の蜜をなめるのに、小枝をちぎり、差し込んで蜜をなめますね。また、胸に貝を抱えつつ、石を両手で持って、背泳ぎしながら石で貝を叩いて割って食べる水獣もいますね。ある種の猿も固い木の実を地面にある石まで運んで来て、かち割って中味を食べますね。あるいは、ある種の鳥は、掴んで来た貝を上空から落として割って食べますね。これらの動作は、上記の四条件を考えつつ、小枝、石などの<道具>を使っている点で、「道具を使うことで、動物から著しく進歩し得た人間」の小型版として評価されますね。

加藤:彼らが人間の小型版なのではなく、私たちが彼らのしぐさの発達した姿を持っていると考えたほうがよく、彼らの姿に「人間的な」何かを見るように思ったときは、それを見る私たちの目が、人間の世界の枠組みになっている点に気づくべきでしょうね。

鈴木:しかし、そんな動物でも、さすがにこの世界を一体どんな風に解釈したらよいのだろうという、「世界解釈」の高さまでは、とうてい辿りつけませんものね。そして、あなたの言われるように、人間だけが「神」の概念を創造し、一切の因果律の根本に「神」を設定し、上記四条件でいくら考えてもうまく自分が納得されない場合には、「神のお蔭だ、神がやった」と決めれば一切OK、万事解決ですからね。これは精神活動上のもの凄いスーパーウルトラ技ですね。こんなもの凄い精神上の営み、新発見は、ノーベル賞を百個やってもやり足りないのではないでしょうか。しかも、ぼくのようにまったくの素人は、微生物もヒトも、例えばあの複雑きわまりない遺伝子のヒモ構造を持っていて共通していること自体、単に進化した結果にすぎないのだろうか、いや、その前にそのような高度の数学で整合性の構造を考える存在がいたのではないだろうか、つまり、宇宙自体に生命の存続を意志し、意図した何者かがいるのではないかという、実際に高度な科学者たちが唱えている説にも肩入れしたくなる心情もあながち否定し去れない心情も芽生えがちです。もっとも、氷河時代は繰返し来るというなら、寒さのための人類滅亡もあり得るわけで、その説にも限界があるようですが。また、「神」がいないという証明もなされていない以上、神がいる、という啓示を古代人の中の優秀な人間が受けて、発表し、宗教を形成したという歴史も、一概に否定し去れない面もあるかと思います。しかし、こうした議論は、人間が待っている能力を用いて推し量っても、限界もあるような気がします。例えていうと、性機能が発現していない幼児が、いくら性のことについて理論的に押し計ろうとしても絶対不可能だということと似ているかも知れません。保育・幼稚園の女の幼児が無意識にお昼寝の時に、股をよじらせて小児自慰という快感を求める行為をすることもあるそうですが、これはあくまでも無意識にすることなので、論理的に性を考えるという範疇には入れないことにします。

加藤:いま、あなたがおっしゃった「性機能が発現していない・・幼児が無意識にすること・・だから考えるという範疇に入れない」とおっしゃいましたが、この表現は、まさにポイントをついていると思いますね。私は、動物たちが行なっている行動のすべてが、――たとえそれが知的行動であるように見えても――言語的知性が未発現のまま、自動的に行なわれていると考えています。ここで「自動的」というのは動物には選択の余地がないということです。餌を見れば飛びつかざるをえず、敵からは逃げざるをえない。彼らの行動は生理的条件と環境によって、不可避的に規定されているのです。これに対し「注意、観察」、つまり自覚的な「意識」を生んだ言語的知性は、人間に「取るか、取らないか」という選択の自由を与えました。もともと「観察」とは「取らないで見ていよう」ということなのです。この態度は人間に「主体性」を与えました。原因を探し、「原因としての神」を設定することができた人間は、同時に「自由−主体性」のあるじともなりました。「言葉の誕生」といっていいのか、「言葉の発明」といっていいのか分りませんが、要するに、言葉が人間性のすべての出発点になったという意味で、ヨハネの「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」という一句は、じつにすごいと思いますね。私はここで、ヨハネの「言葉は神なりき」についての、あなたの独自の解釈をぜひお聞きしたものです。

鈴木:では、ぼくなりの考えを申しあげます。その前にヨハネの言葉1−1から1−18までを、信仰者でないぼくですが、ヨハネの身になって、自分に分るやさしい言い方に変えて見てみたいと思います。「この世界は最初には何もありませんでした。しかし、言葉だけは別で、ちゃんとその前からありました。その言葉は、実は神さまと一心同体でした。つまり、言葉は言葉であると同時に神さまだったのです。この言葉と神さまは二人ではなく、一人だったのです。この方は何もないこの世界にすべてのものを作られました。すべてのものの内、この方によらないで作られたものは一つとしてありませんでした。また、この方には命というものがありました。この命は人間にとっては直接には見ることは出来ないのですが、光と同じものなのです。光は暗い闇の中にあっても輝いています。闇は悪しき力が支配していて、いつも神さまを倒そうと試みるのですが、光の力の方が圧倒的に強いので、闇の中の悪い力はどうしても勝つことが出来ないのです。さて、ここに、神さまからこの世につかわされて来たひとがいました。その名を洗礼者ヨハネといいました。このひとは、神さまには光があり、その光を全ての人間が信じれば素晴らしいことになるよ、とみんなに教えるために生まれて来たのです。そして、このヨハネはひとびとに大きな声で伝え回ったのです。「自分よりもあとに生まれて来たある方がこれから皆の前に姿を現わします。この方はわたしなど問題にならないほど偉い方なのです。その方は神さまの光をすでに自分のお身体の中に持っておられるのです。(中略)何故なら、この方は神さまの一人子だからです。そして、栄光に輝き、神さまの恵みと誠に満ちている方なのです。(中略)大昔、神さまは神さまと人間がどう契約したら、神さまにの意に叶うかについての方法をモーセに伝えました。そして、今、神さまの恵みと誠については、このひと、すなわちイエス・キリストという方を通して人間に伝えようとされているのです。人間の身で、神さまを見た者はまだ一人もいませんが、これから現れるイエス・キリストという方を見れば、神さまを見たことと全く同じことになるのです。何と有難いことではありませんか。さぁ、イエス・キリストさまをお迎えましょう。>このヨハネの宣言の中には、重要なキーワードが六つほど入っています。1。無からの世界の創造 2。言葉 3。神 4.命 5。光 6。闇ですね。そして、この時、あなたが、この対話の中で問題とされている<言葉>がちゃんと入っていることが大注目ですね。

加藤:すべてのキーワード確認の前に、「言葉」の優先性の確認が必要ですね。

鈴木:ヨハネが世界創造に於いて、言葉をまっ先に持って来たのは驚くべきことですね。さっきもいいましたが、旧約聖書の創世記では神がまずいて、<闇>と<神の霊>が漂う混沌に対して光よ生まれよ、と宣告したので光が出来た、となっていて、言葉については言及がありません。創世記が編まれたのは前900年頃とされていますから、福音史家ヨハネが言葉の存在意義の重大性について語るまでには1000年近い年月がかかったのかも知れません。そして、同じくさっき触れましたが、ぼくの素人の学問的裏づけのない勝手な推察ですが、ギリシャ哲学の最盛期を前400年頃とすると、そこで生まれ、検討されて来たロゴスの観念の影響があるかもしれないような気がします。つまり、ロゴスが神、神の意図、理念、言葉その他の幅広い概念の包括体であるらしいからです。福音史家ヨハネはその知識と教養をもって、福音書の文を書く時、こんな胸の内だったのかも知れないと想像します。「さて世界創造だが、何を最初に持って来ようかな。やっぱり神だろうな。いや、待てよ。神では駄目だな、神という言葉も、言葉がなければ存在させられないものな。しかし、神の上位に言葉を置くのはやっぱりまずいな。よし、じゃぁ、言葉を先に書いて、その後神を書こう、しかし、そして言葉と神を合体させよう。これなら矛盾は一応避けられるかな。ちょっと苦しいな。ま、いいか。ほんとうは、神という主体がまず在り、それが世界をどう作り、導いて行くかの理念を持ち、その理念を具体的に表現するのが言葉で、神はそれを作ったと、そう書ければ一番いいのだがな。しかし、よく考えれば、言葉が先だから、そうは書けないのが残念だ。」

加藤:あなたの口を通して語られると、じつに面白いですね。

鈴木:あなたの立論ですでに、ぼくらは理解したように、神よりも言葉の方が順序が先ですよね。人類が類人猿の頃から、痛み、喜怒哀楽の叫びなどの個人的、身体的、生理的表現の言葉からはじまり、狩り、農耕などの生存、労働などに必須な言葉に連なり、自分、性交の相手、子ども、家族、一族、部族などにおける叱責、愛情、尊敬、排斥などの人間関係に関する言葉に連なり、やがて、恩恵や損害を与える太陽、自然などの環境に対する感謝や恐怖などを擬人化した抽象的な言葉に連なり、最後にこの世界を誰が、なんの目的で作り、何を恩恵として与えてくれ、何を懲罰として与えるのか、それは神という超越者、絶対者ではないのか、いや、そうだ、神だ、として、抽象語の頂点としての神という言葉を生んだに違いないという推察は、誰が考えてもそう成りがちですからね。そこのところを十二分に深く考察した、偉大なる啓示と知恵に満ちたひと、福音史家ヨハネが、「言葉が先」という記述で現わしたのでないでしょうか。

加藤:なるほどね。

鈴木:さて、さきほど言った六つのキーワードの内のひとつ、言葉についての感想を申し上げたわけですが、残るものについて大急ぎで触れることを許して頂けるでしょうか?

加藤:どうぞ、どうぞ。急ぐ旅ではありませんから。

鈴木:ありがとうございます。では「1。無からの世界の創造、3。神、4。命」をひとくくりにして考えてみたいと思います。今ではぼくらは自然科学者たちの知見を拝借して、宇宙は今から137億年前にビッグバンで生まれたらしい。ヘリウムと水素が主な元素で、それから星は出来たらしい。40億年前に地球の原始の海で生命が誕生したらしい。20万年前に旧人類が出現し、3万5000年前から農耕、牧畜などを開始したらしい、と言ったことをうろ覚えに知っています。しかし、これらのことを知らなかった太古の人間がこの世の創造が、神からなされた、と考えたのはとても優秀な、とても自然な成りゆきだと思います。そして、すでに作られた存在として、自分の属性から、精一杯に空想力を発揮して、自分の属性から離れない、人間と同じ姿をし、自分の民族の言葉を喋る神を作ったのもとても自然だと思います。それは、新生児はすでに作られていて、母乳を吸う時、自分を作った母や人間について一般的考察をすることは決して出来ず、母乳をひたすら無意識に吸うだけの存在だという点で似ています。そうした人の観念が作った神を、いや、人の観念の所産ではない、神は先験的にいたと信ずることが出来るのが信仰者で、それはそれで良いと思います。ぼくはぼくで、立場が違うので、ひとの観念が生み出した神観念を人格神と呼んでいます。ユダヤ教の神ヤーウェは、旧約聖書の創世記1−1で、のっけから「光あれ」と言われた、とあり、人間の言葉で喋っています。また、出エジプト記20−2では神がモーセに十戒を「言葉を使って言われた」とあり、そのあと数十ページにわたり、幕屋の作り方、捧げ物の実用的な仕方をこと細かに申し渡しています。こんな実利的な命令は神官が書いたのでしょう。聖書や神についてひとと話す時、その神は世界を創造した人格神/歴史的神の意味で使っているのか、ひとがたんに想像して作った非歴史的観念、一信教以外の神などですが、それなのかを確認してからしないと混乱する場合がありますね。

加藤:そうですね。

鈴木:しかし、ぼくは、前にも言っていることですが、神観念には二面があり、「1.創造神/人格神」という面と、「2.救済神」という面があると思います。救済神というのは、例え、人間が想像して作った観念であろうとなかろうと、ひとが自分の心に生じた弱さ、不安、何ものかにすがりたい気持、希望への助力を心から願い、祈りたい時に設定する対象としての神です。ぼくはこの神を信じています。しかし、人格神は宗教の上に成り立つ神で宗教文化を生んで来ていて、宗教が作りだした彫刻、絵画、音楽、建築などの芸術文化なくして、現代の文明、芸術はないので、その意味で凄いものだと思います。あなたは常々、自分は神には決して救済は求めないし、事実、救済などは自助努力以外にないのだ、と言われていますが、それもまた真実でしょう。こと神に関しては、全て主観であり、優劣比較は出来ないし、意味がありませんからね。

加藤:その通りです。

鈴木:さて、「4.命」についてですが、人格神における命、及び、その尊さは、人間自身が、その中に持っている、高貴さ、尊さ、他人と連帯して正しい生き方をしようと意志の反映なので、信仰者以外でも理解しやすい概念だと思います。しかし、人間は反対に、下劣、卑劣、他人を蹴落としても利益を得たい、他人との連帯など糞喰らえ、犯罪をおかしても利益を得るぞ、と思う面もあり、それだからこそ、「神の命」という手本の観念は貴重だし、なくならないと思います。長くなって、申しわけないですが、最後に「5.光、6.闇」について触れさせて下さい。

加藤:どうぞ、どうぞ。

鈴木:朝の清清しい太陽の光について、嫌悪感を感じるひともいないわけではないかも知れませんが、まぁ、一般的には、太陽、光、明るさは良いイメージであり、暗闇は怖い、不安なイメージだと思います。この感覚はあらゆる民族の神話に共通しています。しかし、ユダヤ教、キリスト教における聖書や宗教、習俗に関して光と闇についてある時は、その歴史的な背景にも強く関係があるように思います。地中海の東側の古代文明は縄をなうように、その思想を影響し合って発達して来ました。前4世紀頃のメソポタミア文明のギルガメッシュ叙事詩では、もっとも古い洪水の物語りがあり、旧約聖書の創世記6−13のノアの箱舟の起源となっていることは有名ですね。前25世紀頃からのエジプト文明は太陽を神としています。前3000年前頃からのギリシャ文明も多くの神々を生みました。前18世紀頃の定住時代を神話にしたユダヤ教はユダヤ民族とだけ契約を結び、肩入れする契約神を神としています。前6世紀頃のペルシャ帝国ではゾロアスター教/マズダー礼拝教が聖なる神と邪悪な神との二元論に立ち、聖なる神の象徴たる火を拝んでいます。前1世紀頃からのミトラス教はローマ帝国全域で大層な力を持ち、生と死をあやつることの出来る太陽を崇拝し、さらにこの世の救世主としてのミトラス神を信仰しています。そして、キリスト教はこれらの大先達の後塵を拝し、やっと紀元後300年頃、ローマ帝国に公認されました。キリスト教はこれらの先達の思想や儀礼などを多く取り入れて出来上がった後発の複合的な宗教です。たとえば、ミトラス教では12月25日の冬至にお祭りをし、処女の人形が金色の赤ん坊の人形を抱いた像を贈るそうです。この金色は太陽と光であり、処女は聖母マリアの処女懐胎としてキリスト教に継承されたといわれています。救世主が生前に受ける無惨な死は、すでに旧約聖書の預言者によって語られているし、この世の終末の到来と、救世主による審判とこの世の再構築の神話的願望は、古くから、地中海世界に執拗にありミトラス神もそれですね。新約聖書によるイエス・キリストの生涯の物語も、たんに、福音史家個人のイメージ以上に、こうした過去の母型的な記憶から紡がれた総決算だという面もありますね。ぼくはあなたから、よく二元論者だといわれますが、聖書の中の光/善/神と闇/悪/悪魔の二元論も根強いですね。

加藤:そうですね。二元論は分りやすいですからね。それにしても、あなたのヨハネ解釈をたいへん興味深く拝聴しました。私のヨハネ解釈は単純です。すなわち、「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」とは、文字通り「言葉=神」である、なぜなら言語が人間に人間性を与えたから、ということになります。言葉によってこそ人間は世界を見るようになったのであり、主体性と理性を持ち、感情を表現できるようになったと思います。人間の霊性、精神性を保証しているのもこの言葉にほかならないと私は思います。人間を他の動物から引き離し、自主性と自由を与え、万物の支配者としての地位を与えてくれた言葉、その言葉こそが「神そのもの」だったのではないか、とヨハネがいっているように思えてなりません。

鈴木:なるほど。

加藤:今回、私は「人はなぜ異なる言語で了解し合えるのか」という問いを立ててみたのですが、その解として、私は人間がその源において一つであり、原初的な言語の発生プロセスも一つであったからだ、と考えたいと思います。犬が犬であるように、人間もまた基本的には一つの種族なのだと思います。この人間という種族は、言語の開発において、すなわち知性の獲得プロセスにおいて「注意」「観察」という道を通ったのであり、決して他の道を通りはしなかったのです。今日の地上の言語は恐ろしいまでの偏差と変化をみせ、それはさらに刻々と変化しつつありますが、言葉の枠組み=認識の枠組みが根っこの部分で一つだという事実は、私たちが根本的には人間として、最終的には「お互いに了解し合えるのだ」「理解しあえるのだ」という希望を抱かせてくれるように思います。

鈴木:ぼくに言わせれば、いつの時代でも、あなたが言われる「言葉の恐ろしいまでの偏差と変化」は付き物ですね。一神教と多神教の言葉の偏差、ローマ帝国とゲルマン民族の言葉の偏差、西ローマ帝国と東ローマ帝国の言葉の偏差、絶対王制の貴族と庶民の言葉の偏差、産業資本主義における資本家と労働者の言葉の偏差、カトリシズムとプロテスタンティズムの言葉の偏差、第一次や第二次大戦における民族意識間の言葉の偏差、資本主義と社会主義の言葉の偏差、イスラム文明と現代資本主義における民主主義文明の言葉の偏差、欧米文明と非欧米文明の言葉の偏差などなど、常に変遷を重ねて来たように思います。それらの対立する二つの言葉の偏差が、血と涙と庶民の犠牲の上で、止揚/アウフヘーベンされると、直ぐに次の言葉の偏差の闘争がはじまります。あなたの言われる<人間としての最終的な了解と理解>は、ぼくたちの一ミリにも満たない皮膚の下では、全世界の人間が、すでに生理的に握手し、抱擁し、連帯に成功しています。アフガンの庶民も、アメリカの庶民も、爆撃され、悲しみに包まれれば、全く同じ表情で号泣しますからね。これだけ全世界規模での報道が発達していると、喜怒哀楽に偏差はないという情報が確実に行き渡りつつあります。しかし、力の強い誰かの頭蓋骨の中で、常に、偏差と対立の思惟が生み出され、紛争として具現化されると、その思惟は生理を黙らせ、血と涙の悲劇を執拗に再生産し続けます。全ての生き物、微生物から動植物の全ては、常に弱肉強食関係の中でおびえ、緊張し、休まることがありません。人間もまた、そうした対立と緊張を永遠に自己再生産しなければならない運命を背負わせられた存在なのでしょうか。ぼくはペシミストなのでしょうか。

加藤:誰もがペシミストですよ。ただ、誰もが、いささかなりとも希望を抱くからこそペシミストとしての側面を持つのではないでしょうか。しかし今は、私たちは「言葉」そのものについて議論することとし、人間が本当に絶望的であるかどうかについて、急いで結論を出さないでおきましょう。それでは今日はこの辺で。また次回。

   
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