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言葉と神
 
第2回  「善、悪」という言葉は使える貨幣か

加藤:こんにちは。前回は対談終了間際に、あなたから強烈な先制パンチを受けましたね。今日は体制を整えて、いささか反論を試みたいと思います。前回のあなたのお話ですと、正しい認識という面で人と人が繋がることを妨げている要素が、二つあり、そのひとつは「気持」への配慮を忘れた「論理」の横行ということでした。もう一つは人の心にひそむ犯罪性であるといわれました。あなたによると、「人間の心は二重構造」になっており、「どの人間でも、その心は善と悪、神性と悪魔性、光と闇、倫理性と犯罪性の二面を持っている」「犯罪者タイプの者は常に、普通の人は時として、悪に走ることがある」ということでしたね。私は、あなたのご意見の最初のほう、「気持への配慮が必要」という意見には同感し、賛成ですが、人間の心が善と悪との二面性を持ち、要するに心が二重構造になっているというお説には、かならずしも賛成できません。

鈴木:先制パンチだなんて(笑)。あなたは、今回の立論で、人間同士の正しい認識を妨げているものは「言葉」ではないかと考え、そこに焦点を絞って話しをされたいのですよね。それを分っていながら、ぼくは、「言葉」以外の「気持」だとか、「善と悪の心理」だとか、余計な要素を、最初から持ち出してしまったようで、ごめんなさい。行きがかりで、今、急にやめるのも変なので、大急ぎでそれらを語り合ったら、あなたの、本題の「言葉」に行きたいのですが?

加藤:いやいや、これでいいのです。このまま話を続けましょう。

鈴木:ぼくが言いたかったことは、相互理解しようと思っても、どちらかが、もし、犯罪者心理、すなわち、相手をおとし入れてやろうと考えていたら、理解が成り立たないという当たり前のことを言っただけなのです。

加藤:そうすると、あなたのお考えでは、人間の心の「二面性」のうち、犯罪者的な側面がコミュニケーションを疎外している、ということなのでしょうか?

鈴木:えぇ。

加藤:理由が何であれ、人間社会で暴力はいけませんよね。それは犯罪的だと私も思いますね。しかしここで、かりに「あいつを殺してやる」と思うほど憎しみあっているAとBの人間のことを考えて見ましょう。この場合、Aが正しくBを理解しているか、Bが正しくAのいわんとすることを理解しているかをたずねてみる必要があります。A、Bが本当にお互いに相手の考えを理解しあえれば、かりに考えの違いがあったとしても、「なるほど、そうなのか」と思い、少なくとも殺し合いを止めることができるのではないかと思うのです。この意味で「正しい認識」の問題は、この世界に住む私たちにとって、もっとも最初に取り組むべき、もっとも緊急の課題であるように私には思えます。

鈴木:まったく、あなたが言われるように「あいつを殺してやる」と思うほど憎しみ合っている二人がいる場合、互いに、相手の考えを正しく理解し合って、「なるほど、そうなのか」と思い合い、憎悪心を収められれば、どんなに良いかと思います。それで、憎悪心が退いて、相手と相互理解、親愛感が出る場合と、理屈では、互いの事情が分りあっても、一旦火が付いた憎悪心をストップ出来ず、どんどん、憎しみが内攻して行く場合もあるのですね。そして、もう我慢出来ない地点で、感情が爆発して、暴力や殺人が起きるんですね。創世記神話のカインとアベルの例をひくまでもなく、古代神話の神々も争いに次ぐ争いで 明け暮れ、人間が争う動物であるサガを如実に反映していますね。

加藤:まったく困ったものです。

鈴木:人生で、殺してやりたいほどの憎悪の感情を持つ人間関係を、仮に、ぼくなりに典型例として、具体的に羅列してみますと、小、中、高、大学時代なら、児童、生徒、学生が仲間からいじめられている場合ですね。また、権威を笠にきた教師からのいじめ、セクハラ(性的加害)もあるし、親からの無理解、強制もありますね。社会に出てからは、自己を表現したり、出世しようとしたり、経済行為で利益をあげようとしたりした時に、いわれのない妨害、迫害、無視、はずかしめを受けた時や、狡猾な罠にはめられた時ですね。恋人、夫婦の関係での不実行為からの被害もあるでしょう。

加藤:なるほど。

鈴木:いじめられた子供、長期間、教師からセクハラを受けた女子大生、一生懸命働い ているのに、相性の悪い課長から、昇進を妨害されている有能な会社員、悪意のある共同出資者の横領で、自分の資産、抵当に入れた自宅まで失った経営者、相手から浮気をされた女や男など、相手をそれこそ、殺してやりたいと思いつつ、殺して刑務所に入ったら、自分や家族の一生がだめになると思い、胃を痛め、うつ病になり、ときには自殺してしまうようなケースは、日常、ごまんとありますよね。そこまで行く前に、例えば幼稚園児などが、詰め寄って、口を尖らせて、自分の気持を主張したり、相手も言い返したりする、ああいう率直な「口」での自己表現で、「気持」のガス抜きが出来たら、どんなに良いかとぼくなどは思ってしまいます。

加藤:なるほどね。あなたのお考えでは、そのようなとき、つねに加害者と被害者という関係が成立しているわけですね。そのときに、被害者側がもっと自己主張したり、反論したりできればいいのではないかと思っておられるわけですね。しかし私は、争いの関係について、どちらが加害者か被害者か分らないケースが多いのではないかと思うのですよ。いまかりに、にAとBの間で、話し合いがおこなわれないままに暴力の応酬がおこなわれたとします。これは、A、B双方にとって不幸なことであり、双方ともに犯罪的です。しかし、双方に理由がある場合、A、Bどちらが悪で、どちらが善、どちらが加害者、どちらが被害者と決めることができるものでしょうか。つまり双方が自分なりの正当性を感じ、あるいはその根拠があると信じている場合、この「犯罪」に、あなたのいう人間の心の二重構造、「善と悪」「光と闇」の二元論を適用できるでしょうか。

鈴木:今、ぼくが上に挙げた例では、「加害者」として、「いじめた子供」「性的悪さをした教師」「昇進させない課長」「横領した共同出資者」「浮気をした者」がいますが、この中で、「性的悪さをした教師」と「横領した共同出資者」は、明らかに「法律という社会規範を犯し、相手の人格を無視しても、自分の性的快楽、経済的利益を実現した者」ですから、この二人は「悪と闇の側に心の振り子を振った犯罪者」だと言えないでしょうか。両人に、あなたのいわれるような「自分なりの正当性を感じ、あるいは、その根拠があると信じている」ことを認めてあげられるでしょうか? ぼくは難しいと思いますが、いかがですか?

加藤:なるほど、法律に違反している場合には、その法律の枠組みで善悪を判断するのは問題なさそうですね。しかし、私にはあなたがいわれる「悪」あるいは「善」は、おそらく私の考える「悪」あるいは「善」とは違うのではないかと思います。私の考える善悪は、そのときどきの状況によって、それぞれの人の立場で考えなければならないものであって、最初から無条件で、万人共通の尺度として、いわば「公準」として示せるようなものではないと思うのです。ある人にとって、ある状況下で「悪」と思えることでも、別の状況下では「善」という可能性がいくらでもあると私は思います。たとえば、どこかの国のリーダーは「テロリストは悪だ」と定義するかもしれませんが、テロリストのほうでは「A国こそ悪だ」と思い、テロ行為を「天誅である」と思っているでしょう。

鈴木:「殺人」や「盗み」、「性的な加害」は、素朴な意味では「公準」としての「悪」であることは間違いないことですね。でも、「戦争における殺人」が「勲章もの」だったり、「植民地からの富の収奪」が明かに「盗み」だったりしますから、特に、政治的な事柄では、「公準」はナンセンスである可能性が大ですね。ぼくはアメリカは、プロテスタンティズムの持つ権威への抵抗精神やフェアさをこどもの時から仕込む教育などで、大好きな国ですが、彼らの祖先が、アフリカからおびただしい数のアフリカ人を騙しや脅しで拉致して来て、労働力を人為的に調達し、彼らアフリカ人の悲惨な涙の上に築かれた国だと思う時、複雑な気持を押さえることが出来ません。

加藤:なるほどね。それに私たちがいま「公準」として認めている法律の中身も、時代とともに変化していますし、国によっても違いますよね。だとすれば、人間の心は「善悪の二重構造になっている」というあなたの仮説は、そのままでは受け入れがたいのです。いま私たちに分ったことは、単純に「善、悪」という言葉を使うことはできないということなのです。私たちは、むしろどうして、たとえば単純なはずの「善、悪」という言葉に関して、これほど違う認識が生じたのか、そのことを考えなければならないと思うのです。

鈴木:なるほど、善と悪という言葉に関して、まさに、ぼくたちは、これほど違う認識が生じていたわけですね。その認識の違いの原因について、ぼくは、今まで、あなたと対話して来て、「待てよ、あれが原因かな」と今、思いついたことがあります。それを言いたいのですが。

加藤:どうぞ。

鈴木:ぼくたちは、どちらかが、あるいは、どちらもが「相手を殺してやりたい」と思うほどの憎悪の感情にとらわれているAとBの間の人間関係について考察して来たわけですが、どうやら、ぼくは、その人間関係は、どちらかが「加害者」で、どちらか「被害者」であると決まっていると考えて来たようです。となると、その考えは「加害者」と「被害者」という二項対立概念から成り立っているので、「善」と「悪」という二項対立概念と結び付きやすいですね。

加藤:その通りです。

鈴木:ところが、あなたは同じ憎悪関係のAとBがいる場合どちらが「加害者」なのか、どちらが「被害者」なのか、分らないと言っておられます。ここが、ぼくとのスータト地点の違いかな、と思います。「加害者」と「被害者」が、あなたの場合、「二項対立概念」になっていないので、当然「善」と「悪」という対立概念にならないわけですね。

加藤:そうです。

鈴木:ぼくは、確かに、現実社会の憎悪がらみのケースでは、あなたが言われるように、二項概念がはっきりしないケースは多々あると思います。ぼくは思考する時、最初はなるべく具体的な素材を思い浮かべ、そこから、一般化した結論を引き出したいヒトなので、また、煩瑣かも知れませんが、具体的な例を挙げてみたいのですが。

加藤:どうぞ。

鈴木:例えば「嫁と姑争い」、「財産相続争い」、「目撃者のいない交通事故争い」、「知人間の借金不払い争い」、「男女の痴話げんか」、「何世代のもわたる土地の境界争い」など、キリなくあると思います。この場合のAとBは、例えば「ひどい鬼姑」と世間では認識していたのに、よくよく、調べて行くと、嫁の方にも隠された欠点あって、どっちもどっちだ、ということになるケースがあります。これらのケースに通しているのは、紛争の発端には、両者に善、悪、加害、被害の発想がなく、事柄が進行して行くに従って、両者の思惑や性格のズレがどんどん拡大され、終いには血で血を洗うような深刻な事態に達するということでしょう。もし、あなたが、これらのようなケースを頭に思い浮かべて、「善悪、加害、被害の区別など、簡単につけられるものではない」と言われていたなら、ぼくも「そうですね。まったくその通りですね」と答えたいと思います。

加藤:あなたが二項対立の話をしてくれたので、話しやすくなりましたが、私は、ものごとを理解しようとするとき、安易に二項対立を持ち出すことを自分に戒めています。たとえば、私が「トラブルにおける当事者は、つねに加害者と被害者に区分できる」などというならば、それはずいぶんおかしなことですよね。

鈴木:いやぁ、こうして、あなたと対話をさせて頂いたお蔭で、互いの間に思考の溝があったのか、とも思っていましたが、実は、互いに違う面にスポットライトを当てていて、そこから、違う結論を引き出して、比較し、溝があるなぁ、と思ったきらいがあったのではないでしょうか。もし、そうであれば、まさに、あなたが「言葉」を互いに良く吟味して検討することが、「紛争解決/正しい認識への到着」の大きな力になるのではないかというテーゼも理解できる気がします。

加藤:「言葉」を吟味することの意義についてご理解いただいて、まことに幸いです。さて、お話のあった二項、「善、悪」という概念に戻りますが、言葉としてはひどく抽象的です。それは、私の考えでは、いくつかの言葉をマスターしてからでないと、理解できない概念です。そこでむしろもっと具体的で身近な事物に結びついた、「花」「虫」「コップ」「鉛筆」などという、具体的な事物の名称に使われる言葉について考えて見ましょう。こうした言葉に関してさえ、お互いに思い描くイメージが違っている可能性があるのですからね。

鈴木:えっ?

加藤:ちなみに子供たちに「花を描きなさい」といったとき、彼らはどうするでしょう。ある子はさっそく「さくら」を描き、他の子は「チューリップ」を描くでしょう。また、ある子は「先生、何の花を描くのか決めてくれないとぼくには描けません」というかもしれません。つまり、「花」という言葉についても子供たちの間に、受け取り方の違いがあるのです。子供の「花」という言葉に対する反応の違いは、その子が母親に言葉を教わったときの状況や、その後に見た絵本やテレビや、あるいは家の近くで見かける視覚体験が関係しているに違いありません。もちろん、その子の感受性や理解力も関係しているでしょう。大人になるまでの間には、たくさんの体験や学習が積み重なるわけですから、ある人が「花」といったとき、そこにはその人のそこまでの体験と学習のすべてが関係していることになるのであり、その体験の差が各人の「花」という言葉に対する認識の差を形成していると思います。

鈴木:なるほど。

加藤:ところで、私は「善、悪」という言葉では抽象的過ぎるので、具体的な事物の名を上げようといい、「花」を選んだのですが、ここまで考えてみると、さくらの花も花であり、チューリップの花も花であり、かえでの花も花であると同時に、「花」なるものは存在しない、ということが明らかになります。つまり、「花」という言葉も、まだ具体的な個物の名称としてはあいまいだったのです。このあいまいさが、各人のイメージの差を作り出しているのかもしれません。要するに一般名詞は、「虫」であろうと「コップ」であろうと「鉛筆」であろうと、すべてこの手のあいまいさから逃れることはできません。

鈴木:厳密に考えると、そうなるのですね。

加藤:いや、別に厳密に考えるまでもありません。ちょっと、立ち止まって考え直せば 分ることです。ところで、自然科学的な見地からすると「花」とは、植物がつける生殖 器官の呼び名ですが、かりにそうだとすると、私たちには「花」がいっそう分りにくいものになります。というのも、同じ植物の花のなかにまったく「花」と思えない花を見なければならないでしょうし、一方ではてっきり「花」だと思い込んでいるものが花ではなく、茎だったり、顎だったりする可能性があります。つまり、学問の世界では、「花」は所定の定義における植物の部位をさすのであり、「花」という言葉は、単なる「記号」であることが明らかとなります。そして個別の花の名前に戻っていうならば、たとえば「学名」が象徴するように、それが細分化され、精緻化されればされるほど花の名は「特定の集団における仮の約束であり、記号にすぎない」という性格が明らかになります。つまり、学問が精緻に「名前」に関して約束事を決めれば決めるほど、それは本来のその事物らしさを失い、符丁化し、記号化します。

鈴木:へぇー、パラドックスなんですね。

加藤:たとえば、天空で目立っている星の名は昔の人がつけたもので、それぞれのイメ ージとキャラクターを持っていますが、最近発見される天体名は、単にアルファベットと数字の組み合わせに過ぎません。最近は冥王星が「惑星ではない」とされましたが、事物の名は、それが厳密に検討されればされるほど流動的になるという不思議な側面を持っているのですね。それにいま私たちは、「花」という言葉を取り上げましたが、たとえば「虫=昆虫」のことを考えて見ましょう。昆虫の定義、認識の差は「花」どころではありません。たとえば、蜘蛛やサソリを昆虫と思っている人はたくさんいます。つまり、誰もが「虫=昆虫」という言葉を知っているけれど、実際には「昆虫」という言葉そのものを知らないのです。

鈴木:いや、意外ですね。

加藤:さて、私は同じ言葉でも「善、悪」では、あまりに抽象的過ぎるので、もっと身近で具体的な事物の名なら、各人の認識に大きな食い違いはないかもしれないと思いましたが、どうやらそうでもなさそうです。これほど単純な「花」「虫」という言葉をめぐってさえ、認識のバラツキが生じることが分ったのですから、さらに抽象的な「善、悪」「神」「正義」などという言葉になったら、各人の認識の差はどれほどのものになることでしょうか。ある記号論者が、「正義」とか「神」などという言葉は「酔いどれ語」であるといっています。つまり、言語としては存在するが、正体の分らないものをさしている言葉だというわけです。私は「善、悪」という言葉を「酔いどれ語」だといって切って捨てる気にはなりませんが、それでも、こうした抽象的な言葉を使うとき、「自分がそうだと思っていること」と「他人がそうだと思っていること」をいつも等号で結んで使うことはできないと思います。つまり、言葉の中には、ひとまずどこででも使える流通性の高い貨幣もあるが、中には、ひどく使いにくい貨幣も混じっているといいたいのです。「善」「悪」という言葉もその代表だと私には思われます。

鈴木:ほぉー。あなたが言葉を、各人の解釈の差違の少ないものを「流通性の高い貨幣」に例え、解釈の差違が大きい可能性がある語/観念語を、「流通性の低い貨幣/使いづらい貨幣」と例えるのが、実に巧みで、ユニークな比喩ですね。中世のヨーロッパ、アラブ社会などでは、経済交流圏が広大で、近代国家もなく、法制的保証もなかったわけですから、硬貨は両替え商人が交換してくれなければ困ったわけですね。金含有率が高いかどうかすこし削ってみるとか、フィレンツェのメディチ家が発行したから信用がおけるとか、両替え商の勘や経験を使って「流通性の高い貨幣」には、高い交換レートを与えたのでしょう。

加藤:きっとそうだったでしょうね。

鈴木:また、あなたが、今、「正義」や「神」などの観念語を「酔いどれ語」と称した人がいた、といわれましたが、これも面白い表現ですね。特に「神」については、あらゆる解釈が可能ですから、仮に、そのひとが「近代的合理主義者」で、神観念を揶揄したい気持がある時には、そう言いたくなる気持も分ります。ヨーロッパではキリスト教、わが国では仏教が、生まれた時から、教区教会や菩提寺という形で、有無をいわさず縛り付けていますから、「近代的合理主義者」が、宗教に反発したくなる気持は、ぼくはよく分ります。

加藤:「酔いどれ語」は、別に揶揄的表現ではないのですよ。ただ、人による解釈の振幅が大きすぎて、しまつに悪い言葉という意味なのです。

鈴木:そうなのですか。しかし古代人は、朝日の出、夕焼け、虹などの壮大な空のドラマを見ると、きっと、何か「神の恩寵」というような感情で満たされたと思います。また地平線から出たばかりの、真っ赤な大きな月を見ると「不吉」な気持になったと思います。実は、ぼくもそう感じるのですが(笑)。でも、現代科学は、それらは、光のプリズム性や、月と人との距離で見え方が違うなどのレベルであって、「恩寵」や「不吉」のヘチマでもないことを教えてくれています。しかし、それらが分っていた科学に詳しい宮沢賢治でも、やっぱり、大宇宙や大自然に何か厳粛な気配を感じ、思わず知らず、ひざまずく気持を作品に色濃く投影していますが、ぼくも、そういう気持、絶対に忘れたくないですね。忘れたら、絵を描けないから。

加藤:あなたらしいですね。私は、あなたの言葉の中に実際に感動を呼ぶ光景そのものと、感動を呼ぶあなた自身の「言葉」とが、相互に共鳴しているという印象を受けます。しかし、神の観念については、また、機会を改めて話しあうことにしましょう。

   
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