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言葉と神
 
第20回  世界平和のために

加藤:私たちの対話も、いよいよ最終回となりました。私たちは言語をめぐってさまざまな話し合いをしてきたのですが、その対話の内容を要約して、ぴったりいいあてているような文章を私はガダマーの本の中に発見しました。

鈴木:ほぉー。

加藤:ガダマーは次のようにいっています。「われわれが了解しあうのは話し合うことによってであり、そのさい話はいつもかみ合わないのではあるが、それでも結局は言葉を使って、言葉で語られた事柄を眼前に生み出しあう。ということは、言語には固有の歴史性があるということである。われわれのうちにだれもが、自分自身の言語を持つ。互いに生活を分かち合う二人には彼らの言語がある。そもそも万人共通の言語という問題はなくて、あるのはただだれもが異なる言語を有するにもかかわらず、個人、民族、さらには時代の境界を越えて了解がなされうる、という奇跡だけである」と。これは私たちがこれまで積み重ねてきた話の内容と一致するものではないでしょうか。

鈴木:現代ドイツの哲学者ガダマーは、まさに今回あなたが掲げたテーマを、見事に真下からしっかりと支えてくれていますね。「話はいつもかみあわないのであるが」というところが良いですね。それはぼくの実感です。しかし、それにもかかわらず「了解がなされる」のであり、それは「奇跡」なのだ、といいうわけなのですね。

加藤:また、カダマーは次のようにもいっています。「自分のあらゆる思考や認識において、われわれはいつでもすでに言語による世界解釈のための先入見にとらわれているのであり、この世界解釈の中へと成長していくことが世界の中で成長することなのである。そのかぎりでは、言語こそわれわれの有限性の真の軌跡なのである」。彼がここでいっている「世界解釈のための先入見」とは、私たちがこれまでの議論の中で「ヘッドライト」の概念に相当すると思います。また、「言語こそわれわれの有限性の真の奇跡なのである」と彼が言うとき、私は人間が言語を通して世界を構築してきたこと、しかし私たちがたとえどんなに新しい言葉を作り、それゆえ新しい世界を創造=表現しているように見えるときでも、つねに過去の言葉によって新しいものを表現しなければならないこと、ということを意味しているように思えます。それはまた人間という不完全な動物の宿命であるということ、それでいて、それが人間たちの不断の進歩の足跡を示している、ということを意味しているように思えます。また私は、彼が言語が、世代を超えて伝承されていく文化の基礎を形成したことにもふれているような気がします。

鈴木:なるほど、ガダマーもあなたも同じく、まず「先入観/ヘッドライト/偏差」があると。そうした「有限性」の人間が、いわば普遍性を求めて「成長」してゆくことが、彼のいう「歴史性」の意味なのですね。そして、あなたは、さらに、あなたのユニークさを加えています。すなわち、「どんなに新しい言葉を作り、新しい世界を表現した積りで使っても、その新しく見える言葉は実は過去の言葉なのだ」と規定し、「そのことが人間の不完全さを示すと同時に、進歩を表わしているのだ」と言っていますね。ぼくには「人間は決して新しい言葉は作れないのだ」と言っているようで、「えっ?」と思ってしまいます。例えば「人権」「平等」「議会制民主主義」といった言葉は、古代、中世には無かった言葉で、それらは「実は過去の言葉」だとは思えないのですが。ちょっと唐突で分りづらいので、何か適切な言葉の例を挙げて頂ければなお一層理解できるのですが。

加藤:「つねに過去の言葉によって新しいものを表現しなければならない」という意味は、「新しい言葉は作れない」という意味ではありません。たとえば「人権」は「人間」と「権利」を組み合わせた言葉で、「人間」も「権利」も、ともに非常に古い起源を持つ言葉です。ここでは私は、私たちがいま使っている言葉の多く、またその母型の多くが、じつはきわめて古い祖先を持っている、とだけいっておきましょう。ところで、ガダマーの話に戻りますが、彼は「言葉の本質が西洋の哲学的思惟の中心に据えられたことは一度もない」ともいっていますが、これは、これまで人間たちは、「言葉が意味するもの」にだけ注意を向け、「言葉そのもの」が人間にとって何を意味していたのかについて、考えてこなかったということを意味しているように思われます。

鈴木:それは凄い「発見」ですね。「言葉が意味するもの」ではなく、「言葉そのもの」についての意味、意義を過去の偉大な思索者たちが見落としていたとは驚きです。

加藤:そうですよね。しかるに、私たちの論議によれば言葉は、ヨハネが指摘する通りの重要さを持っているわけです。すなわち、人間社会の一切のドラマが、幸も不幸も、悲劇も喜劇も、「言葉」によって規定されているのです。かりに私が不幸であるとしたら、私はおそらく自分自身に言い聞かせる「言葉」によって不幸なのであり、私が、かつてどこかで誰かに向かって発した「言葉」によって不幸となったのです。

鈴木:そうであるならば、紀元直後にヨハネがそう発言したことは、もの凄く重要なことですね。もっとも、「言葉」と日本語に訳されているその前の原形の言葉、例えばギリシャ語ならギリシャ語のレベルで検討されなければならないでしょうし、それは聖書成立史という学問を経なければならないとすれば、別の意味で大変なことでしょうが、興味をそそられますね。ヨハネのこのことばを、神学的解釈とは別に、今、現代人として、言語論的に見直さなければならないというあなたの指摘は実に鋭いですね。

加藤:ご承知のとおり、ヨハネの日本語における「言葉」はギリシャ語では「logos」、英語のテキストでは「word」となっていますね。だから「Word was God」です。ところで、私には、単に「言葉」の意味の違いをめぐって人々が無益な論争をするのをやめて、ここでいったん立ち止まって「私たちにとって言葉とは何であったのか」のかを考えることが緊急の課題であるように思えます。言葉を「既成事実であり、それを考えるのは言語学者の仕事である」、とするのではなく、各人が、自分の身の上の一切を決定してしまう「言葉とは何か」を考えることが、世界平和への第一歩であるように思うのです。

鈴木:あなたが、「人間社会の一切のドラマが、幸も不幸も、悲劇も喜劇も、言葉によって規定されている」。「私が不幸であるとしたら、私はおそらく自分自身に言い聞かせる言葉によって不幸なのであり、私が、かつてどこかで誰かに向かって発した言葉によって不幸となった」と語る時、それはかっちりと完成した、美しい詩の朗誦を聞くような快感を覚えます。ところで、ぼくはある命題が発せられる時、必ず、具体例を当てはめて検証しなければ気が済まないという野暮な癖があるので、もしかしたら形而上的なことを検討するのに向いていないのかな?という不安を覚えます。そこを押して伺いたいのですが、自動車事故で、親兄妹に死に別れた一人の娘さんがいるとします。生活苦から夜11時まで続く居酒屋のアルバイトをしなければ食べて行けず、しかし、ある夜、どうしても通らなければ帰宅出来ない公園の中をいつものように、大急ぎで走って抜けようとしたが、暴漢に襲われてしまい、レイプされ、妊娠し、エイズをうつされてしまって、自分の不幸さに絶望しているとします。この時、「わたしは馬鹿だった。夜11時過ぎにあの公園を通ること自体が無謀であり、間違っていた。悪いのはわたしだった」と自分を責めたとすると、その言葉が彼女を<不幸>にしたのでしょうか?それとも、暴漢が彼女を不幸にしたのでしょうか? また、以前豊かな暮らしをしていた時、友人に「若い娘が夜中に表をふらふら歩き回るなんて馬鹿よ。何かあったら自業自得よ」と発した言葉によって、暴漢によってではなく、不幸になったのでしょうか? あなたの真意をぜひ聞きたいのですが。

加藤:これは、これは。以前の議論の復習になりましたね。前にも申し上げましたが、人間の感情は言葉のOSの上に発動する個別のプログラムなのです。だから、言葉をまったく知らない人にとっては、その身の上に何が起ころうと、孝も不幸もありません。「死に別れ」「生活苦」「レイプされる」「エイズをうつされる」「加害者」「被害者」・・これらはすべて言葉です。その言葉の意味のゆえに彼女または関係者は「不幸」を味わうのです。動物のオスはゆきずりのメスを「レイプ」しますが、彼らには幸も不幸もありません。かつて人間にもそうした時代があったのでしょうね。たとえば、「親が死ぬ」という言葉の意味を知らない小さな子供は、親の葬儀の日にも人々に向かって笑っています。幸・不幸は言葉のOSの上で動く情念の産物なのです。

鈴木:あぁ、その説明で、あなたの真意が分りました。あなたが先程「かりに私が不幸であるとしたら、私はおそらく自分自身に言い聞かせる「言葉」によって不幸なのであり、私が、かつてどこかで誰かに向かって発した「言葉」によって不幸となったのです」。と言われるのを聞いて、その「よって」を別な意味で受け取ったものですから。例えば「結核菌によってひとは結核になる」という原因と結果を繋ぐ接続詞と受け取ってしまったのです。だから「言葉によって不幸になる」と聞いてヘンだなと思ったのです。しかし、あなたはその直前に「人間社会の一切のドラマが、幸も不幸も、悲劇も喜劇も、言葉によって規定されているのです」と言われています。これの方がぼくには誤解の余地がない明確な規定ですね。同じことを自分に分るように言い換えると、「人間社会の一切のドラマ、喜怒哀楽の感情も、思考、思想も、すべて言葉という形態に命名された要素から成り立っていて、それ以外のものから成り立つものは一切ありえない」とでもいうことにしましょう。

加藤:言葉の問題を考えている私が、誤解を与える言葉使いをして申し訳ありません。さて、議論を一歩先に進めさせていただくことにしましょう。私たちはこの対談の中で、「意味は状況と文脈の中にしかない」と話し合いました。相手の話をいくらかでも理解するということは、相手の立場に身を置き、その状況、文脈をつかみ、多少とも疑似体験するということだと私は思います。この点について、昔の人は「行間を読む」「言外の話を聞く」などといっています。先にあげたガダマーも「語られていないものが、語られたものとともに理解されているときに、はじめて言表は理解できるものである」という言い方をしていますし、メルロ・ポンティなどは「意味は文字の彼方にある」などといっているほどです。

鈴木:なるほど、そのことについて、確かにぼくは学習しましたね。

加藤:上のことから、私は次のような世界平和のための具体的な処方の一つを見出すことができるのでは、と思います。それは、「文脈を理解しない限り、ものごとを理解したと思うな」ということです。これは「状況を知らずに断定してはいけない」ということでもあります。人間同士のいさかいは、大抵状況から切り離された「単語」、あるいはよくても「短い個別のフレーズ」をめぐっての争いです。よく「あげ足とり」とか「言葉尻をとらえる」といいますが、これらはみなただ一つのこと「文脈を理解していない」ということを意味しているのです。教養とは、さまざまな関係者の話について、それぞれの文脈をつかむ能力のことでしょう。聖徳太子が10人もの請願者のいいぶんをいっぺんに聞き取ったという、いわゆる「豊聡耳(とよとみみ)」の話は有名ですが、これは単なる「耳」や「記憶力」の問題ではなく、彼が複数の請願者のいいぶんを、その文脈=背景からして理解することができたという意味だと私は思います。

鈴木:そうですね。同じ理解でも、単語レベルでの理解と、文脈、状況ぐるみの理解では大いに違うこともすでに学習しました。

加藤:おそらく請願者たちは、聖徳太子に訴えたとき、それぞれ「はじめて自分の言うことがわかってもらえた」と感じたのでしょうね。ここには「主張し、請願する人間」と「聞き取る人間」というもう一つの問題がでてきます。多くの人々は相手の言葉や文脈を理解する以前に、ただ「主張し、請願する側の人間」として現れざるをえません。それは私たちがすべて「子供時代」から出発しなければならないからです。

鈴木:例えば、今、毎日のように中東や全世界でテロ闘争の戦災悲劇が続いています。これを、単語的レベルで理解すると、「テロはけしからん、やめろ」という理解があり、それに対して「アメリカはけしからん、テロを手段にしても、アメリカと協調者は皆殺しにしろ」というあなたの言う「主張し、懇願する人間」があり対立します。これはあなたの言う<子供時代>の言語ですね。しかし、その根底には西欧文明とイスラム文明の衝突という大きな文脈/状況があるようです。そこまでのレベルに立ち入らないと、この問題の真の理解には到達出来ないような気がします。しかし、その文明論も、学者が机上で論じきれるような静的で単純なものでなく、日々変化する歴史、人種抗争、部族的派閥抗争、イスラム教内部の過激派と穏健派の抗争、イスラエル国家の出現による抗争などがあり、その文脈的理解は大変困難のようです。しかし、大切なことは、あなたの言う<聞き取る人間>として、イスラム文明の苛つき、その怒りの真の原因、主張、世界をどうしたいのか、その考えとビジョンにまず、一度、耳を傾けてやることが必要ではないかと思います。ぼくはイスラム教のシンパでも何でもないですが、子供の喧嘩でもあんまり長く続く時は、押さえ付けることばかりではなく、両者の主張をまず聞くことからはじめないと・・。国連に一度、オサマビンラディンを呼んで、一体、あなたは世界をどうしたいのか、何が不満で、そこ迄過激な武装闘争をするのか、一体、何があなたの怒りの原因なのか、どうしたらその怒りが収まるのかと、発言の場を与えてやりたいぐらいのものです。

加藤:大賛成。まったくその通りですね。おそらく「大人である」とは、お互いに相手のいいぶんを、その背景や文脈からして聞き取り、おだやかに対話できるということなのですね。また「大人である」とは、お互いに対話によって問題を解決しようと最後まで努力できる、ということなのでしょうね。しかし、私たちのこれまでの議論によれば、それでも十分ではありません。といいますのも、私たちは「ヘッドライトの構造」から逃れられないからで、私たちが何かを主張するとき、つねに私たちは自分流のパースペクティブでものを見、自分流の価値観、あるいはパラダイムを相手に押しつけているのです。そして一番問題なのは、そのことに気づかず、あくまで自分自身の考えが「正しい」と思ってしまうことなのです。

鈴木:全くです。ヘッドライトの光り方が違っていて、社会の中での暮らしは大抵はそこで終りなのではないでしょうか。その先、問題を解決しようと最後まで努力するとすれば、よほど、そうしなければならない利害関係があってのことの方が圧倒的のような気がします。これは利害ですから、教養の問題ではありません。あなたのいう大人の対話、文脈まで推し量り、穏やかに話し合うことが出来るのは、よほど、文化的教養度が等しく高いレベル同士か、互いに同量の好意を持っている同士か、かと思ってしまいます。殆どのひとは世界平和を実現するために、言葉を意識して、互いの距離を縮めて行こうと考えるよりは、自分の周りの狭い範囲の人間と、そこそこ意思疎通をしてゆければ、それで良いし、真の意思疎通などはあり得ないのだ、とあきらめている方が多いような気がしますがどうでしょうか?

加藤:残念なことに、まったくおっしゃる通りですね。各人が狭い視野の中に閉じこもり、それでこと足れりとしているように見えるのは困ったことです。それにまた、「国益」「利益」「権利」・・などの言葉=概念が大きな障害になりますね。国家の代表者が発言するときには、私人=個人としての意見を述べることはできず、国益を代弁するという立場を取らざるをえませんが、このことが個人レベルでは可能かもしれない真の対話と議論を困難にしてしまいます。そして「国益」が、大多数の国民が利益だと信じているものだとすれば、それが結果として不利益であるかもしれない、ということもありえるわけです。古代スパルタでは、はじめのうち価値のない鉄貨だけを用い、金貨や銀貨を国に持ち込まないことが国益に適うことだと思い込んでいました。事実この時期がスパルタの全盛時代でした。しかし金貨を持ち込むことが利益だと思い、これを実践しはじめたとき、スパルタは堕落と荒廃に向かって進んだと言われています。

鈴木:ぼくはよく言うことですが、政治家はよく「国民」「国民のため」と十把ひとからげに言いますが、そこに無理があります。国民といっても、資産の沢山ある、なし、中間で、国家運営と自己への利益還元についての考えは違います。今、国益という言葉が出ましたが、ぼくに言わせれば、「階層益」しかないのです。しかし、有難いことに、それを露骨に発言出来ない時代なので、政治家は皆、素直な自分を出せず、三つの階層全体を平均的に見ているよ、と言うヌエ的自己の仮面で発言するしかありません。あなたの言われる真の対話と議論が出来ない原因がそこにあるような気がします。これは政治家の宿命かも知れません。しかし、その限界の中で、日夜、努力している政治家の活動には敬意を表します。例えどんなに不純でも、ファッシズム、独裁制よりは良いですからね。あとは、国益ですが、もちろん、自国の領土の尊厳がからむ国際紛争となれば、文字通りの国益は一致することが多いでしょうがね。

加藤:あなたのおっしゃる「階層益」という考え方は、まさに各人ヘッドライトの構造、その限定された視野に関係しますね。個別のテーマや、具体的な事例に即して考えないかぎり、一般論としての「国民」に当たる実体も存在しないし、「国益」に当たる実体も存在しないのでしょうね。

鈴木:で、さきほどのスパルタ国家の話ですが、面白そうですね。鉄貨を使う内は、階層が別れず、金、銀貨を使うようになって、持てる者が質実剛健から遠ざかって行ったとでもいうことなのですか?それとも?

加藤:おそらく、国民が贅沢と安易の味を知り、鍛錬、忍耐、自制などという徳を追及するのをバカバカしいと思うようになったからではないでしょうか。私はいつも、貧しい国々が経済的発展を遂げるのはすばらしいことだけれども、古代スパルタの事例は、いつも私たちに経済的発展と恩恵はつねに贅沢・逸楽、羨望、安易などという友を連れてやってくるのだ、ということを教えてくれているように思いますね。ところで、先ほどの議論に戻ると、ヘッドライトの視野の広さ、あるいは光源の強さが各人のものの見方を決定づけるのですが、このことと、私たちがすでに話し合った「価値観の違い」「解釈の違い」「どんぴしゃ語を使えない」などの要件が重なって互いのコミュニケーションをさらに難しくしてしまうのだと思います。

鈴木:あなたが最初、鍛錬、忍耐、自制などを実行し、質実剛健だった者あるいは国家が、経済的発展を遂げると、どうしても贅沢、安易、悦楽、羨望などに染まってゆくものだ、と言われるのは、確かに歴史と人間の本性を言い当てていますね。ぼくらの子ども時代は恐ろしい寒さの冬でも、あるのは火鉢かこたつしかなく、ひとびとは一般的には質実、すなわち飾り気がなく、剛健すなわち身体が強く、寒さにも強く、たくましい面はありましたね。しかし、目覚ましい経済発展を遂げて、エアコン頼りになると、質実剛健の反対、ぜい弱になって来た傾向にあるのは確かかと思います。しかし、発展を遂げた者、国家といえども、それ以前は必ず貧しく、質実剛健なのですね。繁栄を誇った国家ローマであれどこであれ、物質的に豊かになると、精神的に弱くなる、という法則はどうもあるようですね。しかし、逆に芸術や文化については質実剛健だけの中からは豊かに生まれ、成熟しない、こたつ生活からは現代日本のように、クラシック音楽を目覚ましく自分のものにしてヨーロッパ文明の一翼を担うというような訳には行かない、という面もありますね。こうした二律背反的なテーマをわりにうまく切り抜けた歴史もありますね。拙著『中世の旅人ヤン』にも書いたことですが、本来、質実剛健的なゲルマン民族、いわば田舎者が、ローマ文明を倒し、しかし実態は吸収されたのですが、7世紀にキリスト教国になった時、いわば都会人になり、文明の贅沢が入って来た時、個人としても、国家としても、堕落してもおかしくなかったのに、そうならないで済んだという歴史的事実ですね。これは修道院というもの、修道僧たちが、一日の時間を無駄にしない、一日を規則の中に閉じ込め、放逸を嫌う、という方法論で自らを節し、また、自分だけの孤立した世界に閉じこもらないで、実社会を教導したという点から生じたことですね。これは歴史の中で希有なことのような気がします。日本の寺の殆どは葬式に関わるだけの宗教と言われ、ブッダの思想を積極的に世に広めて行く歴史を持たないのと対称的ですね。ヨーロッパという地球上で、もっとも経済的にも発展した地域が、都会であれ、田舎であれ、実に落ち着いた暮らし、内面も豊かな生活を営んでいる、という事実が何よりの証左だと思います。こうしたことを、キリスト教、宗教とは関係なく、アジアでも、日本でも達成出来たら良いのですがね。

加藤:まったくです。ところで、さきほどの古代スパルタの事例を借りていえば、ある人は「経済的に豊かになり、贅沢を楽しみたい」、またそれを「いいことだ」と思うのですが、他方には「贅沢はいかん。質実剛健こそが好ましいのだ」と思う人がいます。一人の人の心の中でもこの価値観は揺れ動き、判断が揺れ動きます。私自身も「質実剛健」に強い憧れを持っていますが、古代スパルタ人のような生活はごめんです。私はなんと、ある日は自分に所定の贅沢を許容し、ある日は節制を心がけようとしたりするのです。自分自身の中で価値観が定まらず、解釈が定まらないのに、他人の「不定見」や「心変わり」を咎めることなどできないはずですよね。そこで私は、平和的なコミュニケーションが可能にするためのもう一つの大きな前提を次のように考えます。つまり、自分自身がある明確な価値観や解釈、要するに定見、おおげさにいえばフィロソフィーを持つことは大切だし、必要だと思うのですが、同時に自分が「かなり不定見なのだ」「状況によっては解釈を変えざるを得ないのだ」という自覚、すなわち謙虚さを持つ必要があるのではないかと思います。

鈴木:あなたが、今日の贅沢可能文明社会に生きつつ、具体的に、その精神を堕落せずにとどめる意志と、その方法を明言されるのは、実に感動的です。ある日はある程度の贅沢をしてみる、しかし、またある日には、その計りの目盛りを戻すために、わざと、節約してみる、これは実に素晴らしい精神の運営法ですね。スーパーで、ある日は寿司を買って食べるが、次の日は一切れ90円のシャケの切り身を食べるとか、やっていますよ。ハハハ。

加藤:まったくご同様です。どうやら私たちの節制能力は「限られた資源」「限られた予算」という重しがないと、発現しないようですね。この意味では「温暖化ガスの排出削減」など、現代人がこぞって節制の美徳を学び、実践するための、格好のチャンスかもしれませんね。この点でも、往々にして価値観の修正が必要になるようです。

鈴木:また、あなたはもうひとつ、素晴らしい精神訓を吐露されましたね。原理原則を持ち、その中で生きることは大切だが、時と場合によっては、その原則を曲げることすらあり得る自分というものをはっきり自覚する、ということですね。太宰治の文学が人の心をぎゅっと掴むのは、彼が偽悪家ぶって言ったり、やったりするのに、つねにそこに善に対する渇望があるにも関わらず、善はこの世では偽善の形をとりやすく、そんなことならいっそ偽悪でいってしまえ、という精神への敏感さと哀しさがあるからではないでしょうか。あなたの自己の不定見さへの告発も、やや同じ意味での敏感さと誠実さに満ちています。あなたがこの対話にみられるように、厳格で、緻密な思索を重ねて、原理原則を求道しつつ、こうして、その限界を自己の中で見定める態度は、ぼくにとって、実に意味深く、尊敬しつつ、吸収するところです。

加藤:あなたに私の不定見をほめられては、身の置きどころがない気持です。アランは「目覚める、意識を取り戻すとはどういうことか、それは信念を投げ捨てることだ」といっています。また「恐怖は・・瞬時にして信念をもたらす」ともいっています。「信念」という言葉は、一般的に好感を持って迎えられていますが、見方を変えれば、これは新しい状況に目と耳をふさぎ、要するに認識を拒む態度にもつながります。いちばんいけないのは「排他的信念」というもので、これが、「揚げ足取り」や「言葉尻をとらえる」というやり方と結びつくと、たちまちトラブルになります。16世紀のフランスのある政治学者が「こり固まった信心は、だれでもそれに夢中になる人に対して悪い助言者である」といっていますが、まさに現代にも通用する指摘だと思います。

鈴木:なるほど、信念というと聞こえは良いが、頑固に凝り固まれば欠点になる場合もあるし、不定見というと頼りないが、逆に柔軟性という長所もあるわけですね。最近、ある人がTVで「一つの物事は、よく見ていけば五角形位の面を持っていて、けっして一面ではない」と言っているのを聞いて、なるほど、と思いました。東西の冷戦も終り、東西の凝り固まった政治的信念、人類を幸せにするのは共産主義しかない、とか、いや、正反対だ、という頑固さのお蔭で、アメリカではマッカーシズム旋風で多くのリベラル派が追放されたり、ソ連では多くの無実の者がシベリア送りとなって、東西ともに悲劇的な人生をたくさん生み出しましたね。それが終って、ホッとしたかと思うと、今では近東の宗教的極右の信念が、地球上でまた多くの悲劇を生みつつあります。困ったものです。

加藤:まったく同感ですね。いつまでもあなたと、この対話を続けていたい気持ですし、いくらでも続けられそうな気がします。けれども、とりあえずいったんこの辺で「中締め」にして見ようかと思います。そこで私なりの、この対話の簡単な締めくくりをして見たいと思うのですが。

鈴木:そうですか。では、お願いします。

加藤:ヨハネがいみじくも指摘したように、私たちにとって言葉は神にも等しいもの、あるいは神そのものではないかと思います。むろん言語は不完全であり、誤解のもとです。それは、私たちが私たちの生理に根ざして作られた原始語を使い、これを発展させるやり方によってしか、生きてこられなかったからであり、私たちが言語に関していまだに未熟だからです。しかしこの言語こそが人間らしさと知性を発動させ、全文明・全文化の形成と継承を可能にしたのです。であるとすれば、私たちはもっと言語に注意を向け、言語を尊重し、これをもっと学ぶことが必要ではないかと思います。すなわち幅広い言語力、文脈把握力を身につけることが、世界平和へ向けて、各人の責務ではないかと思うのです。そして言語を学ぶ王道は、いわゆる古典作品に接し、これに親しむことではないかと思うのです。ま、他にもっといい方法があれば、それを実践すればよいのですが。

鈴木:あなたとの今回の対話のお蔭で、今、あなたが言われたことの大切さが本当に良く気付かされ、認識させられました。ほんとうに感謝します。創世記11をひも解くと、「全地は同じ発音、同じ言葉であった。」ひとびとは言った。「さぁ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。そしてわれわれは(略)全地に散るのを免れよう」それを見た主はこの建設をやめさせ、「(略)彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」と言ってそうした。このバベルの塔の寓意は、人類が最初は同じ言葉を使っていて、心が通じ合っていたが、神が嫉妬してそれをやめさせた。ひとびとは異なった言葉を使いはじめたので、互いの心も離れ、相争うようになった。と解釈するのも一つの解釈ですね。この寓話は言葉が如何に人類の基本であるかを語っていることは今さら言うまでもないですね。もちろん、今から、全人類が同じ言葉を使うことになったら、どんなに素晴らしいことでしょう。人類は争いに次ぐ争いの歴史の中で、しかし、良い意味の信念、理想の存続のお蔭で、国際連合が出来、EUが出来、英語が共通語になりつつあり、第二のバベルの塔が立つのも、あながち空想ではないというオプティミズムがぼくらを勇気付けています。早く、携帯用の実用的な通訳器が出来ると良いですね。あるいは、希望する者の脳にある種の細胞などを植え込むことによって、通訳器具なしで、思考の相互交換が出来る時代が来るかも知れません。これはぼくの最も望む科学の発達の一つです。

加藤:まったくそうですね。また、私たちは、これを「原始語」のところで考えたのですが、言葉=観念には「賞味期限がある」といいたいと思います。私たちが「信念を捨て」なければならないようなとき、それは、単に当面の利害が原因である場合も少なくないのですが、じつはその言葉=概念が賞味期限切れになっている、という場合も少なくないのです。それにまたマスコミケーションの登場によって、その言葉=概念がまだ有効性を持っているのに、早々と捨てられてしまう、ということもあります。要するに、言葉に対しては、どこまでも多面的なアプローチが必要なのですね。

鈴木:ほー、その具体例を聞かせてくれませんか。

加藤:たとえば戦前には、天皇は「現人神」であり、臣民は「天皇の赤子」でした。また「鬼畜米英」を倒すため「お国のために死ぬ」などという言葉が用いられていましたが、これらは人々にとっては、思い出したくもない死語となりました。いまのは極端な例で、賞味期限どころの話ではありません。そこで「闘魂」とか「気概」などの言葉も、用い方によってはアナクロニズムを感じさせるのですね。このごろ人々は「気概」といわずに「根性」といいますが、私は個人的には「気概」の方が「根性」よりも、ずっと上品で格調が高いと思っています。けれど、テレビのアナウンサーや解説者は「根性」は使いますが、「気概」とはいいません。「気概」はまだ使えるいい言葉なのですが、賞味期限切れの扱いです。

鈴木:なるほど、そのように、あなたが個人的にある種の言葉に対して身構えたり、思い入れを持ったりしていることが分り、あなたの論議がより一層身近に、人間的に感じられました。ところで、さっきのバベルの塔の寓話に戻りますが、言葉さえ統一されたら、すべてが好転するという楽観主義に対して、今回のあなたの立論は、実に根源的な問いかけをされました。人間が幼い時期から、成熟した大人へと変化するように、言葉も同じく、幼さから成熟へと変化し、成長するのだ、と。そして、あなたの緻密な考察によって、ぼくらの言葉はまだまだ幼さの段階にあるものも含まれている。幼さは相互信頼、相互理解からは縁遠く、やみくもに互いに言い合い、主張しあう段階であると。あるいは、互いに相互理解を絶望し、自らの穴に入り込んでしまうだけだ。それが、世界の平和共存のために大きな障害になっていると。あなたが考え抜かれたこうした貴重な思弁を開陳され、ぼくらを啓蒙して下さったことに深くお礼申しあげます。

加藤:いやいや。お礼などを言われては、恐縮してしまいます。私はときどき、人間にとって大切な真理・要諦=すなわち、私たちが平和に、幸福に暮らす方法については、すでに過去の偉大な人々によって語りつくされているのではないかと思います。ただ、私たちはそれらを知り、読み解き、服用するすべを知らないだけなのだと。そのためにも、一見、賞味期限が切れたかにみえる言語にもさかのぼって、考えてみる必要があると思うのです。私たちのどの言語にも、神々と人間たちの足跡が残っているわけですから。

鈴木:なるほど。では、あなたが考えられる過去の古典作品で、今回の言語論に関して、すでに有効的かつ強力に触れて、ぼくらを啓蒙してくれる作品名を挙げて頂けませんか、後学のために。

加藤:古代ギリシャの哲学者たちから始まって数多くの名著が残されていると思います。しかしその中でも、とりわけというならば、私は言語の本質論という点でも、幸福の本質論という点でも、プラトンの読み直し、再評価が必要であると思っています。この点を明確に指摘している点で、私はいつもアランに敬意を表しているのです。

鈴木:ありがとうございました。なお、最後に、もし、この対談をどなたかが読まれた場合、この鈴木という者は、言語論議の域を越えてなんと余計なことまで喋っているのだろう、とお考えになったら、次の事情からです。ぼくは対話の前にあなたに、ぼくは言語論についての関心があなたのように高くはないから、あなたのお話しの引き出し役に徹しましょうか?と尋ねました。しかし、あなたは、いや、それにこだわらず、自分の思っていることを遠慮なしに語ってほしい。それで刺激を受けることにもなるのだから、というご返事でした。そんな訳で、ぼくは「あ、今、言語論の域を越えつつあるな」と感じつつも、長くなっても構わず発言を言い切った次第です。ご了解ください。ともかく、今、対話を終えて、あなたから得た知の広がりを全身に感じ、快い満足感がぼくを包んでいます。

加藤:こちらこそ。あなたはこの対話で、とかく平板で冷ややかなものになりがちな私の論理を、つねに「もっと人間の心情について考えなくていいのか?」という観点で、戒めてくれました。また、あなたの意表をつく論理の跳躍は、思いがけない視点を開き、対話に彩りを添えてくれただけでなく、私に思考のヒントを提供してくれました。この点に心から感謝します。また近いうち、今度は別のテーマで対話をしたいものですね。・・長い間のおつきあい、有難うございました。(了)

   
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