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言葉と神
 
第3回  ロボットは冗談を笑えるようになるか

加藤:今回もよろしくお願いします。お互いにこうして「言葉」について語り合っているのは、何のためでしょうか。それは「世界平和のため」だと私は考えています。(笑)といいますのも、私の考えでは、人は互いに真剣だからこそ争うのです。そして「言葉」の行き違いがもとで、さらに深刻に争うようになります。この点を解明するために、私たちは認識をめぐる言葉の問題について、きちんと考える必要があると思うのです。・・ということで、これからもしばらく「世界平和のために」(笑)つきあってください。

鈴木:あなたが「世界平和のため」などと言われるのを聞くと、なんだか可笑しくなってしまいます(笑)。なぜって、日頃、そういうおおげさな概念的な言葉を使いがちなのはぼくの方で、そういう時、マユをしかめるのは、いつもあなたの方だったような気がしますので。でも、あなたが珍しく、今回テレずに、正面切ってそう言われたのは、あなたが人間同士の理解の食い違いが悲劇を生み、それをなんとか解決する方法はないものかと思索されている動機の強さを感じ、とても心打たれます。そこで、あなたは、言葉を分析して行って、その性質を明らかにし、言葉の正しい相互認識の方法を打ち立てようと考えておられるのですね。

加藤:その通りです。私は前回、日常私たちが使っている単純な単語でも、人によって受け取り方や感じ方が違うという話をしていたのでした。その例として、私は「花」と「虫」の例をあげました。私はまた「鉛筆」と「コップ」という言葉も一緒に上げておきました。私は前回をおさらいする意味で「鉛筆」と「コップ」についても、考えて見たいと思うのですが、よろしいでしょうか。

鈴木:ほぉー。

加藤:「鉛筆」といえば、私は細い木製の六角柱の中に芯が入っているもの、――小刀で先の木質部を削り、芯を出して使う――を思い浮かべます。このタイプの鉛筆は今日でもまだ健在ではありますが、かつての「鉛筆」が占めていた地位は、今日、シャープ・ペンシルやボールペンやフェルトペンなど、新しい筆記用具に取って代わられているようです。そこで、たとえば今誰かが、「ちょっと、鉛筆貸してください」などというと、相手の人はボールペンを手渡したりするのですが、これでけっこう間に合う場合も少なくないのです。この場合、私たちが使う「鉛筆」という言葉は、「もっとも手軽で、身近な筆記用具」という意味であって、かならずしも黒鉛芯の入った六角柱でない場合があるのです。

鈴木:なるほど。しかし、あなたが今「鉛筆」で言われたことは、ぼくには、まったく今まで考えたことがないことで、あまりの複雑さが潜んでいることにびっくりしました。今までのぼくは、「鉛筆=はい、それは黒鉛の芯を木片でくるんだ筆記用具です」で一切が終わり、それ以上は何もない、と思っていました。しかし、あなたが挙げられた、鉛筆という物体に、それを借りる人、貸す人、貸し借りするその時の状況などの因子が加わると、「鉛筆」が「万年筆」や「ボールペン」に変化しさえするのだ、ということにびっくりしました。改めて、そう考えてみると、ひとびとは、こうしたつけ合わせをする前に、心の中で、瞬時に、「筆記具を持ち合わせないで、電話に出るなんて、だらしがない」とか「鉛筆を頼んだのに、ボールペンを貸してくれるなんて、いい加減だ」とか、「何でもいいから、サッと貸してくれるとは、機敏で親切だ」といった具合に、相手の性格や人格への、いわば「善し悪し/道徳的な判定」さえ、していることに気付かされます。

加藤:まったくその通りですね。

鈴木:こうした時、本来、無機物で中立な筈の鉛筆という物体が、「善し悪し/道徳的な判定/情念」などの色ゼラチンをかけられて、「間に合って助かった良い鉛筆」とか、「頼んだものの代替え品でしかない、つまらない鉛筆」とかに染められ、「性格付けされ、/生命化されたもの」に変質して、見えるのかなと思ったりします。

加藤:なるほど。鉛筆も万年筆も、あなたの手にかかるとひどく有機的なものになりますね。

鈴木:筆記具は単なる物質にすぎませんが、日本には古来から、それを使うひとの心と結びつける独特の物質感がありますね。茶道や小笠原流など、詳しくは分りませんが、そうした「作法道」にはその哲学が様式化されているようですね。ぼくなりに応用すると、鉛筆は消して描き直せるのに対して、万年筆は消せないので、相手に対しての心配りの度合いをそれで計るとか。

加藤:私は鉛筆でも、心のこもった、上品な手紙はいくらでもあると思いますが。まあ、一般的にいって「万年筆の方が高品位」というイメージは認めていいでしょうね。

鈴木:筆書きが普通だった時代には、工業製品である万年筆で書くと「失礼」だ、などと考えたひともきっといたことでしょう。今は、個人間の手紙なのに、手書きでなく、「工業器具/パソコン」で寄越すとは何事だと立腹するひともいるらしいけど、「パソコン失礼論」もいずれ、時代錯誤として消えてゆくのでしょう。ぼく自身は、どの筆記具にも「品格」のランク付けるつもりはいっさいありません。どれも人間のために役割を果たしてくれている尊い物質で、同格だと思っています。これ、ぼくのアニミズム感覚ですけど(笑)。

加藤:ははあ、尊い物質ね。恐れ入りました。では今度は「コップ」について考えて見ましょう。私のイメージではコップとは、ガラス製の比較的背の高い――水などを入れる容器、食器――なのですが、このコップの形状にもいろいろあります。同じような寸法、仕様に見えても、テーパーがついているもの、あるいはテーパーのないストレートなものもあります。ロック・グラスのように、背の低いものもあれば、コップの水平断面が円になっていないものもあります。それにまた表面の色や装飾のヴァリエーションにいたってはきりがありません。

鈴木:なるほど。ぼくは「コップ」は外来語なので、もともと正確に定義は不可能だと思い、気にしていなかったです。

加藤:コップに似た容器に、把手つきのカップがあります。どだい私たちの食器棚に「コップ」と「カップ」があるというのは、どういうわけでしょうか。かりにガラス製で把手がついていたら、それは「コップ」なのでしょうか、それとも「カップ」なのでしょうか。それにまた取り外しのできる把手がついている場合、それは「カップ」なのでしょうか。またコップには「グラス」「タンブラー」などの別名があるのですが、これらの定義と境界線はどうなっているのでしょうか?

鈴木:いやぁ、あなたからそう言われると、なるほど、問題あるのですね。少なくとも、ポルトガル語では、コップのことを「COPO」というので、江戸時代にさかんに来たポルトガル人の持参した器と発音から日本にその言葉が定着したのではないかと考えていましたが。

加藤:なるほど、そういうことですか。いずれにしても。このように考えてみると、私たちのもっとも身近な物品の名前についても、私たちはかならずしも共通の用語と共通の認識を持っているとはいえない、ということが分りますね。鉛筆の場合で言えば、私は「筆記具の、時代の変化による偏差、あるいは意味の変化」ということを強く感じますし、コップについては、あまりに名称と実物についての偏差が大きく、かりに私たち同士の間では了解が成り立っていたとしても、そのままでは「他国語への通訳はほとんど不可能である」ということを強く感じますね。というのも、わが国において確立している「コップ」と「カップ」概念の違いを、英語を話す人々に、どのように説明したらいいか私には見当がつかないからです。

鈴木:通訳する時の不便さね、これも考えたことなかったですね。どの国でも、そういう定義不確立の言葉ってあると思っていたので。

加藤:ところで、もう一度「ちょっと、鉛筆を貸してください」という言葉に戻りたいと思います。この場合貸してほしい人のいっていることは、字義通りに取ればボールペンではダメで、あくまで「鉛筆」でなければならないはずなのですが、「貸してください」といわれた人(Aさん)は、いっている人(Bさん)の仕事の状況を見て、とっさに、「ここで言っている鉛筆とは、筆記用具のことだな」と見当をつけ、手もとにあるボールペンを手渡します。この判断は、状況にもとづく推測のこともあれば、「筆記用具であれば、何でもいいはずだ」という、一方的な思い込みのこともあります。ですから、Bさんに「いや、私は鉛筆が欲しいのです」といわれることも充分ありえます。ただ私が注目したいのは、Aさんはこの場合、「Bさんが欲しいのは本来の鉛筆」か「筆記用具」なのか「Bさんは急いでいるのか、それほどでもないのか」をとっさに考慮しているということです。つまりここで「鉛筆」という単語は、単語だけで独立的に存在するのではなく、ある状況の中の文脈の中で、その全体的な意味、――「何でもいいから、至急にほしい筆記用具」、あるいは「ちょっと下書きしたいので、消しゴムで消せる本来の鉛筆」などの意味を獲得するということです。

鈴木:ははぁ、なるほど、ますます、言葉は、その回りの状況から影響されるのですね。

加藤:私の考えでは、言葉は単語としてそれぞれに豊かな、複数の意味を持っているのですが、その単語はある状況の中で用いられてはじめて、そのねらいとする意味を発揮するのです。私たちが辞書を開くと、一つの言葉に対して、たいてい複数の意味が説明されています。私たちは複数の意味の全部を使って話をするなどということはなく、そのうちの一つを使って話をします。その「一つ」がどれであるのか、話し手と聴き手は瞬時に了解しあいながらコミュニケーションを成立させているのだと思います。私はここで、どんなに単純そうに見える言葉にもそれぞれ複雑な「説明」「解釈」があり、その大半は、いくら広辞苑を調べてものっていないと思います。たとえば私たちは日常的に「鉛筆」を「手軽な筆記用具」という意味で使いますが、このような解釈は広辞苑には出ていません。

鈴木:なるほど、辞書による定義は言葉の静的なシルエットを明確にはするが、動いている流動体としての性格付けは不得手なのかも知れませんね。たとえ、そのためにたくさんの用例を採取し、記載したとしても限界がありますよね。

加藤:こうしてみると、どんな小さな言葉も社会の文化により、人により、状況に複雑な意味のバラツキを持っていること、それにもかかわらず、私たちは一定の状況の中で、互いに相手の「意図」を了解しあいながら、これらの厄介な言葉を使っているということが分ります。またそうであるからこそ、困難なコミュニケーションが成立しているのだ、ということを理解することができますね。私たちは互いに話し合うとき、辞書の解釈項目のツケ合わせをしながら話し合っていることはもちろん、辞書にない意味のツケあわせをもおこなっているのだ、ということになるのでしょうね。ちなみに、「鉛筆を取ってくれ」といわれたロボットが、状況を見てボールペンを差し出せるようになるのは、相当先のことだと思います。それにまたロボットには、こうした解釈のずれを応用した「しゃれ」や「地口」を聞いて笑うことはできますまい。

鈴木:なるほど、機械でないわれわれ人間は、類推の幅がとても広いということなのですね。「正確で、正しい認識」という概念に、「類推の幅」という概念を、今回付け加えられたのは、凄いことですね。「類推の幅」という概念を、ぼくなりの言葉に言い換えれば、「曖昧さを否定しないで、曖昧さを通過して、相互認識にたどりつく」ということになりますか。例えば、幼児と大人が会話する時、幼児は正確な言葉の表現が出来ません。でも、大人の方が、愛情や思いやり、何が何でも相互理解してやるぞ、という意志がすでに前提とされていますから、「類推」が可能なのですね。前にも出した例ですが、外国人を配偶者にしたひとも、語彙の少なさ、適用の間違いがあっても、「類推」でおぎなって、相互理解を果たすのでしょうね。人間の大人同士が、議会、会社、学校、サークル、家庭内で、討議の言葉を多用し、言葉を正しく使っているつもりでも、時にすれ違いに終わるのは、「類推」が足りないのも一因かもしれませんね。

加藤:要するに言葉を理解しあう前提が重要なのですね。それでは今日はこのくらいにしておき、次回には概念語の問題に入ってみましょう。

   
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