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言葉と神
 
第4回  ひとは言葉とともにパラダイムをおしつける

加藤:さて、今回は概念をあらわす言葉について話し合って見ましょう。かりに「花」「虫」「鉛筆」「コップ」などを、身近で具体的な事物を指し示す「具体語」と呼ぶとすれば、「神」「正義」「良心」などは、さしずめ「概念語」と呼んでもいいでしょう。「概念語」はあまりにも難しく、あなたの反論も手ごわそうなので、私として避けて通りたいところですが、ここで逃げ出したのでは貴兄の叱責を買うことは必定ですから、少しだけ自分の考えを述べて見たいと思います。

鈴木:ハハハ。叱責だなんて。ぼくは、あなたから、身近にあって、何の疑問も感じないほど明確だと思っていた「具体語」も、それが使われる情況や場所、人によって多くの偏差、多様性があることを知りました。さぁ、「概念語」となると、どんなことになるのでしょうか。

加藤:では、あなたがかねて強いご関心をお持ちの、「神」という言葉について取り上げて見たいと思います。この言葉の場合、それぞれの国語において、つまりそれぞれの民族において、固有の歴史が育んできた意味やニュアンスを持っていることは認めていただけるでしょうね。私の考えでは、日本人にとって、「神」は神社の背後にあるスーパーパワーであり、おなじく寺の背後にある「仏」と、くっついたり離れたりする概念であるように思います。かりに日本人が「神仏」というとき、この「神仏」をキリスト教が育んできた「God」と一緒にできないことは当然です。

鈴木:おっと、ついに「神」が出ましたね。ぼくは「神」のはなしが何故か好きなんですよ。でも、ぼくは信仰には入れないし、厳しい修行もしたことないし、「傍観者」です。しかし、神観念に、かなりの「共感」を持つ者として、対応したいと思います。神観念は、ぼくの考えでは、ひとが創り出したもの、すなわち、歴史的相対性の中にあるものです。その具体的表れである宗教形態や、宗教建築、美術、音楽なども「相対的文化」であり、あなたが言われるように、ヘブライやヨーロッパの歴史が創り出したキリスト教の「神」観念と、日本の歴史が創り出した「カミ」観念が、一致しないで、違うのは当然だと思います

加藤:同じく「God」を、「the god」も一緒にすることはできません。よくわが国の「八百万の神」とギリシャの「the gods and goddesses」は似ているなどといわれますが、私はまったく別物だと思いますね。これらの概念は基本的には「通約」可能なものはあるでしょうが、厳密な「通訳」は不可能だと私は考えます。であるからこそ、うかつに「神」という言葉を口にできないのだと私は思います。

鈴木:「神」観念は歴史的、相対的なものであるが故に、それぞれの発生と成長過程の歴史認識を前提として話し合うことが必要で、それなしに、いきなり、「神」という括弧でくくって討議することは出来ないと思います。

加藤:その通りですよね。

鈴木:しかし、「神」観念は、人為的、相対的、歴史的に形成されたとはいえ、一方、「神」観念が、どの民族にも発生しているという点をみると、そこには、ひとの普遍的性格が反映していて、共通の根っ子を持っているとも考えられます。例えば、世界、宇宙の形成と運営に原理的意志があるのではないかと推測する強い好奇心や、弱者、病者に手を差し伸べようとする高貴な精神、自分の心を倫理的に高めて行きたいとする向上心、「死」の恐怖を、死後の世界(天国)の観念を創ることによって救われようとする発明心などが根っ子に当るかと思います。こちらを重視すれば、歴史性、相対性から来る相違性は薄まって、各宗教が融和できるのではないかと思うのですが。

加藤:そうですね。一見類似した概念の中に越えがたい差異があることをお互いに認め合い、相手の概念をそのまま尊重しさえすれば、深刻なトラブルも減らすことができます。何とかそういう状態を形成できないだろうか、というのが、この対話の主なねらいなのです。

鈴木:しかし、残念なことに、現状では、ひとは、根っ子の共通性よりも、歴史的相対性の相違性に頑固に立て籠り、地球上で、宗教戦争が絶えません。愚かしい限りですね。この頑固さを何とか解きほぐすことを心から願いたいですね。

加藤:同感です。いま私は「神」という言葉をめぐって民族や歴史による違いを考えましたが、個々人の間でも理解や解釈の違いが顕著です。この点を「誰もが同じことを考えているはずだ」としてしまうと、おかしなことになります。ちなみに、私事にわたりますが、神概念に関する私個人の理解と背景をお話してみようと思います。私の父も母も慣習上は仏教徒でしたが、父は東京のミッション・スクールを卒業し、いくらか「God」の概念を学びました。彼は讃美歌を何曲か覚えてきて、私たちに教えてくれたものです。しかし、彼はクリスチャンにはなりませんでした。私の母はあえて伝統的な慣習に盾つくことはありませんでしたが、根っこは実在論者で、神仏をまったく信じていませんでした。彼女はお寺の坊さんを相手に、「戒名」とその料金をめぐってすばらしい論争を展開したこともあります。私の母は戒名のことをあれこれいう坊さんなど屁とも思っていなかったのです。私はこうした両親のもとで一応「神とは何か」という説明を聞き、別のところでも社会慣習を学び、学校でも説明を聞きました。

鈴木:ほぉ、そういう個人史を伺うのは興味深いですね。あるひとの考えは、個人史に相当影響されていますからね。

加藤:というわけで、私の神概念は「神仏のあいまいな概念とそれに対する根源的な不信」、それに「クリスマスの神」と、故郷の神社・仏閣にすまう雑霊がぐちゃぐちゃになっていたといっていいでしょう。もちろん私はその後自分なりに勉強し、いくらかの概念を追加しました。こうして私としてはいかなる個人的期待も、「神」という名に仮託すべきでないという結論に達したわけです。という次第で、今日の私の神仏概念に対するこの懐疑的、冷笑的な態度は、私特有の原初的体験に由来するものかもしれません。そしてこのような私特有の神のイメージは、他の誰かとは決して共有できないものです。

鈴木:ぼくは、「神」観念の根っ子の部分に信を置いているので、今、あなたが、「冷笑的な態度」をとる、と言われたことはびっくりです。また、「いかなる個人的期待も『神』という名に仮託すべきでない」と言われたことも、ショックです。例えば、ぼくが最愛のひとを失ったとして、その悲しみを何とか癒したいと思う時、もし、教会に行って、マリアの聖像があって、涙ながらに、癒しと救済を祈念するとしたら、それで、心理的メカニズム上は、かなりの自己救済が果たされるような気がします。宗教には「救済の装置性」があり、かなり、有効に機能しているように思います。その意味で、今、あなたが表明されたことは、もの凄い態度表明だと思います。

加藤:そうでしょうかね。別に驚くほどのことはないと思いますが。

鈴木:ぼくたち日本人の宗教感情は、一般的には、強烈な創造、運営原理(一神教の神)に、自分の卑小さを照射し、返って来る原理からの強烈な光りを浴びて、身を律するのではなく、祖先の精霊が国土と我が身を優しく守ってくれているので、社寺仏閣という装置の中で時折り感謝し、救済を祈念すれば良い、という程度のゆるやかなものかと思います。一神教に対するような熱い温度でなく、ぬるい温度でしょうが、有神論か無神論かと言えば、有神論だと思います。そんな、あいまいな宗教的風土の中で、今、あなたが、キッパリと、いわば無神論者的宣言をされたのですから、これは凄いことです。

加藤:(笑)いや、私は別に無神論宣言をしたのではありませんよ。私の個人的歴史から形成された私なりの神概念をご説明したのであって、自分は無神論者だと告白したわけではありません。

鈴木:そうですか(笑)。ぼくは、固有の宗教の組織に入って、教祖や指導者を神のように仰ぐことは不可能なのですが、いわば、一人教として、自分の納得した論理で、天が自分を生かしてくれているという感覚を持って感謝し、救済祈念をしつつ生きています。だからぼくは有神論者です。

加藤:あなたが有神論者であることは日ごろからのお話で分っています。けれども私は、無神論者でもないし有神論者でもありません。私は「人は有神論者であるか、無神論者であるか、その二つのうちのどちらかに属しているのだ」という二項対立的な前提を認めていないのです。これに対して、あなたは「人は有神論者であるか、無神論者であるかのどちらかだ」という前提で、私の話を聞かれたのです。

鈴木:そうかもしれません。ぼくはつい、AかBかと分けることに陥りがちなのです。

加藤:いずれにしても、「神」という言葉によって私たちが何かを喋っているとき、それが同一の物を意味しないという、その食い違いの程度は、具体語の場合とはまったくくらべものにならないでしょう。というのも、この場合、私たちは現物を持ってきて、イメージの偏差を調整するということができないのですから。という次第で、私は他人と「神」の話をしたくないし、「神」の話をするときについ臆病になり、用心深くなるのです。

鈴木:なるほど(笑)。あなたが、今回、「概念語」がいかに、各人の間で、偏差が大きいかを、ぼくたちの「神論争」で、まさに証明してくれましたね。

加藤:私はここで、人が自分の言葉を話すとき、――たとえそれが具体語であろうと、概念語であろうと――言葉に関わる自分固有のバックグラウンドを必然的に持ちまわり、無意識のうちに他人にそのバックグラウンドを押しつけようとする傾向がある、といいたいと思います。このバックグラウンドをその人固有の「文化」と言い換えることもできるかもしれません。たとえば、誰かが「人間が宇宙を作ったのではない、だとしたら、何ものかが宇宙を作ったのだ。その創造者を私は『神』と呼びたい」といったとします。この場合、彼は、彼が定義する宇宙の創造者としての「神」概念だけでなく、彼の背景にある「因果律信仰」と「神概念」をも、無意識のうちに背負ってきて、それを私たちに押しつけている可能性があります。同じく私が「神が宇宙を作ったなどとはナンセンスだ」といって反論する場合、私は私固有の――先ほどお話したような、だれとも共有不可能なバックグラウンドを無意識に持ってきて、それを相手におしつけている可能性があります。

鈴木:「神」観念は、ひとが頭の中で創った観念で、絶対的な観念ではなく、相対的観念ですが、しかし、一旦形成されたある「神」観念を、ひとが「信仰」という形で信ずる時、それは、客観性を離れ、主観性の領域に入り込み、「絶対性」に変質すると思います。信仰者が、非信仰者や他信仰者に話す時、自分の「絶対性」を相手に押し付けるわけですから、今、あなたが言われたことが、論理的必然として生ずると思います。現今の宗教戦争を、非信仰者が見る時、「神はひとを幸せにする存在の筈ではないのか。なぜ、神の名によって殺りくするのか。その神は間違った神ではないのか」と言いたくなります。しかし、 「神」観念の相違を、融和出来る筈だというのは、傍観者だから言えることで、信仰に立て籠る原理主義者たちは、おのれの「絶対性」に立て籠っているので、妥協、融和出来ません。「正義」と直結している筈の「神」観念の、自己矛盾かと思います。

加藤:そうですね。概念語にかぎらず、どんな言葉を使うときでも、私たちは自分特有の世界の枠組みを持ちまわります。その枠組みがなければ、私たちにとって「世界」は意味を持たないのです、ただその枠組みは、各自にとっての枠組みであり、どこかに他人とは相容れない部分を含んでいます。人がそれぞれ異なる環境を生きてきた以上、各人の世界が違っているのは当然のことです。私たちは自分の世界の枠組みをほとんど意識していませんが、その違いはときとして深刻なものになります。いくら話していても、いつまでもすれ違いのままで終わり、ひどく淋しい気持ちがするときがありますね。お互いが別種の世界の枠組みを持っているのに、そのことに気づかず、単に言葉の上だけの一致を求めたり、単語の交換だけをしているような場合、私たちはコミュニケーションに失敗しているのだと思います。ときには話をしている二人がケンカをするようなことさえあるのですが、私はそのような事態を見るにつけ、「当事者は自分が持ちまわるパラダイムを無意識のうちに相手に押しつけている。にもかかわらず、自分では少しもそのことに気づかないのだ」と強く感じます。

鈴木:ひとは、自分の人生を歩み、完成に近づこうと日々、努力しているわけですが、ある時には、自己の考え方を絶対視して、確信的に進まなければならないわけです。しかし、他人あっての人生ですから、他人との間合いを計って、互いに相対的存在だという融和的感覚に立つことも必要でしょう。絶対性と相対性のバランスがほんとうに大切だと思います。その意味で、あなたが、今回「自分の考えの押し付けはやめたいものだ」という言われたことに、諸手をあげて賛同したいと思います。

加藤:いや、私は「自分の考えの押し付けはやめたいものだ」といっているのではありません。そうではなくて、「自分が自分のパラダイムを相手に押し付けていることに気づくべきだ」といっているのです。この点にご賛同いただいたとすれば幸いです。さて概念語については、今回の話ではまだ検討が不十分ですので、次回には概念語の意味と価値について、もう少し話し合いたいと思います。


   
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