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言葉と神
 
第4回  ひとは言葉とともにパラダイムをおしつける

加藤:さて、前回は「神概念」をめぐって議論をしましたが、要するに「神」という言葉は、意味の付け合せをしにくい、じつに厄介な言葉であることがわかりました。ですから、同じようにたとえば「善」や「正義」についても意味のつけあわせをめぐって議論しようとすれば、さぞかし厄介なことになると思われます。

鈴木:神概念は、過去から現在までの人間の文化、文明、芸術を形成して来たので、この上なく重要なものですが、「善」や「正義」は、現在のときを生きているぼくたちの生活の一瞬々々のすべてに影響を与えるものですから、その意味では実に大切な概念ですね。あなたが、この重要概念の検討を今、提案されたことはとても意義あることだと思います。

加藤:そうであればいいのですが。ところで、これらの「概念語」の意味の付け合わせはひどく難しいと思いますが、そうだからといって、これらの言葉をそっくり放棄することはできません。私は概念語の中にあるもっとも重要な機能について考えて見るために、まず「直線」という言葉をとりあげたいと思います。「直線」など、一見、具体語のように思えますが、「直線」が「コップ」や「鉛筆」がこの世に存在するようには、世の中に実在的には存在しないことが明らかです。というのも、私たちが共有している幾何学的定義にしたがえば、それは幅もなければ厚みもないのですからね。

鈴木:中学だったかの数学の時間で、それを聞いて、なるほど、純粋思弁というのは凄いなぁ、面白いなぁと感心したことを思い出しました。

加藤:アランは「諸君は直線を誓わねばならぬ」といいました。つまり厚みも太さもないけれども、二点間(「点」の概念も同様)を最短距離で結ぶ直線は、私たちが心の中で、集中してそれを考えることによってはじめて成立する概念です。この誓われてはじめて想念の中に出現してくる直線は、幾何学の、数学のすべての基礎であり、この世の中の「技術」の基礎です。黒板や紙の上の近似的な直線、技術的に許容できる直線は、概念上の直線との関係においてのみ存在します。だいいち直線がなければ、曲線も存在しません。「直線」の概念がなければ、私たちは工業生産物としての「コップ」や「鉛筆」も持っていなかったでしょう。

鈴木:なるほど、その着眼は素晴らしいですね。概念と実相の間に、実に興味深いズレがあるのですね。

加藤:そうです。ごらんのように「直線」が概念語であることは明らかですが、それが人々に共通して受け入れられた明確な定義を持っていること、同時に近似的な表現が可能であることによって、「直線」はとても具体語に近いものとなりました。私たちはごく不正確なゲジゲジ状の鉛筆の線を指差しながら、「この直線が・・」などというわけですが、だれもそのときに「いやそれは、直線などというものではない」などと反対しません。つまり、いま紙の上に見えているものが、概念上の直線の代替物であることをだれもが承知しているのです。ここには「不完全なものをとりあえず完全なものとしてみなそう」、という了解作用が働いています。

鈴木:なるほど。「・・とみなすこと」が、概念と実相のズレを埋めているのですね。下世話な話ですが、「完全な美女」という概念だけは確かにある。しかし、現実にいる美しい女性たちは決して誰も完全ではない。だが、「彼女は美女なのだ」と「みなす」ことによって、現実の女性たちが「美女」とみなされることはありますものね。

加藤:わかりやすいたとえですね。ところで「直線」が単なる概念語であるにもかかわらず、私たちの暮らしに直接に、有益に作用しているという点を確認したところで、私はあえて冒険を試み、「正義」という概念語について考えて見ることにします。この「正義」が、昔から多くの議論を呼ぶ概念語であることは分っています。これは「直線」にくらべてはるかにあいまいです。

鈴木:なるほど。概念上での正義と、現実の中での正義との比較ですね。それは面白い。

加藤:私は「概念上の正義」と「現実の正義」を比較するつもりはありません。私は、これから「正義」という概念語を取り扱いたいと思っているのです、あなたは、概念語のほかに別種の「正義」があるとお考えなのですか。

鈴木:えぇ。あなたが「概念上の直線」と、現実上に、それを写し出した「みなし直線」があるといわれたので、正義も同じで、「概念上の正義」と「現実の正義」があると考えます。 

加藤:私が言いたいのは、「概念としての直線」と「現実の直線」が対比的に存在するということではありません。それはお分かりのように、「AとB」というような、対比関係にはありません。概念としての直線が、私たちの便宜上の直線を、理念的に保証しているのです。ところで「概念上の正義」と「現実の正義」というと、あたかも「AとB」が対比的に存在しているような印象を受けてしまいます。しかも取り扱おうとする「正義」はすでに一つの「概念」語なのに、その「概念」語のほかに、「概念」と「現実」という別の二つのものがあるというおかしなロジックにはまってしまいます。それにまた貴兄の前提から出発すると、これから検討しようとすることについて、無条件で「一つ概念が二つの部分から出来上がっているはずだと」とする予断からスタートすることになってしまうと思うのですが。

鈴木:分りました。では、ぼくの歩をスタートに戻しましょう。正確におさらいしますが、あなたは「概念上の直線(A)」があり、また「不正確なゲジゲジ状の鉛筆の直線(B)」があり、(B)は「概念上の直線(A)の代替物」であり、「(A)は(B)を理念的に保証している」といわれました。それに倣って、ぼくは次のようにいいましょう。「概念上の正義(A)がある」、「現実上の不正確な正義(B)がある。これは概念上の正義(A)の代替物であり、概念上の正義(A)は現実上の不正確な正義(B)を、理念的に保証している」と。これでよろしいでしょうか。ぼくはこれで異義ありません。

加藤:賢明な貴兄は、すでに私が結論としていいたかったことを先取りしてしまわれましたね。(笑)その通りで、理念としての「直線」が「当座の、不正確な直線」を裁き、保証するように、理念としての「正義」が「不正確な、現実上の正義」を裁き、保証するのだと、私はもっとあとでいいたいと思っていたのです。いやはや、賢い人と対話をするのはたいへんです。

鈴木:ハハハ。褒められると、嬉しくなるタイプなので、大層感謝します。もっとも、賢人のあなたとお付合いしているお蔭であることは明らかです(笑)。

加藤:ですがその前に、「直線」と「正義」は似たような概念語であるにもかかわらず、「直線」とは違った特徴があることに留意する必要があります。それは「正義」の場合、ユークリッドによって定義され、その後のすべての人々によって追認され、共有されているような、明確で客観的な定義が存在しないということです。このことをこれまでに確認した私たちのテーゼ、「人はとかく各自の文化的なパラダイムを持ちまわり、これを無意識に相手におしつける」と組み合わせて考えてみると、「正義」は、各自のパラダイムによってゆがめられ、自分流に定義され、解釈されやすい言葉、すなわち、意味的偏差が極限まで大きくなりやすい概念語だということになります。私たちは「花」や「コップ」について、大きな意味的偏差を見たのですが、「正義」についても同じことが言えます。ただしこの言葉の場合、眼に見える現物がないぶんだけ厄介ですよね。

鈴木:まったくですね。前回の「神」にしろ、今回の「正義」にしろ、ぼくにいわせればすべてひとが創った観念ですから、常に相対的でしかなく、常にその時代の思潮の影響を受け、しかも、自分流に定義せざるを得ない面があると思います。ところで、今から「正義論議」を進めてゆくにあたり、まず、あなたご自身が「理念上の正義」と「現実の不正確な正義」をどう言葉で定義されるのかお聞きしたいですね。今、あなたは「各自のパラダイムによってゆがめられ」ともいわれましたが、もし、「ゆがめられる」ものであるならば、「まだゆがんでいない原形」があってこそ、そういわれることになるのですからね。なおさら、あなたの考えられる「正義」の2つの原型を伺いたくなるのですよ。

加藤:それが・・私は答えられなくて困るのですよ。誰か思想上のユークリッドがあらわれて「正義とはこれこれである」といってくれ、全員が文句なく賛成できるようなものがあればいいと思います。あえて定義すれば「正義とは正しいことである」となります。これはトートロジー(同義反復)なのですが、 じつは同じようなトートロジー定義に陥らざるをえない観念語がほかにもあります。「真」「善」「美」などはその代表でしょう。「美とはなんだ?」といわれると、それは「美しいもののことだ」という回答になってしまいます。つまり、これが「直線」と「正義」という概念語の違いの本質だと私は考えます。まだ歴史上これらの概念について、万人が納得するような定義を与えた人はいないと私は思っています。いやはや、困ったものです。

鈴木:なるほど。たしかに、あなたが言われるように「正義」「真」「善」「美」などについて、「全員が文句なく賛成できるような定義」はないでしょうね。でも、あなたはそれを「困ったもの」だと、感じられておいでのようですが、ぼくは、そうした概念語、人文科学上の概念はすべて、「万人が納得する定義」はもともと、ありえないと感じていますので、あなたほどは困りません。やはり、あなたは哲学者、思索者の系譜なのでしょうね。例えば、「正義」ひとつでも、紀元前1792年に、「ハムラビ法典」が定められ、これをもとに「十戒」が表わされたそうですが、偉大なる思索の民、ヘブライ民族は「殺すな」「盗むな」などの倫理則を考案していますね。また、同じく偉大なる思索びとたち、古代ギリシャの哲人たちも研究し、中世キリスト教の偉大なる師たちも、神観念における正義の普遍性を立証しようと頑張ったのでしょう。近世、現代まで、各文明、各時代、各思索者たちによって、真剣に、現代でもなお、思索され続いているといわれていますが、とうてい単一な定義、結論は出ないと思います。人間の限界だと思います。

加藤:あなたが正義について「万人が納得する正義」がないといってくださったので、ほっと安心しました。そこであなたは「では、不正確な正義」をどう定義するのだ、といわれるでしょうね。何しろ「理念上の正義」を定義できないのですから、その現実的応用としての「正義」については、ますます定義が厄介になりますね。それでも、あえて、ときかれるなら私は「それは・・広い意味での当事者間で共有できる妥当性」だと答えるでしょう。

鈴木:たしかに、あなたは、今回、「正義論」を語ることが目的ではなく、言語論を展開することが目的で、その範囲内で、一要素として、観念語の困難さを挙げただけでしょうから、ぼくから、この上、具体的に追求されるのは心外かもしれませんね。しかし、こうして一旦話題に挙がってしまったので、もうすこし、「正義」について対話したいのですが、よろしいでしょうか。というのも、「真」「善」「美」などとはくらべものにならない緊迫性を「正義」は持っていて、現代人のわれわれは、その「不正確であっても、現実の正義」なしでは一瞬も安全な暮らしを営めない、というのが、ぼくの持説だからです。

加藤:私は「真」「善」「美」は、いずれも正義にかかわっていると思いますので、「正義」だけが緊迫性を持っているとはいえないと思いますが、あなたのお気持はわかりますので、お話をお続けください。

鈴木:ぼくは、あなたのような純粋思弁の過程をじっくり愛するタイプではないし、自分の感じたことをサッと決め、それで進み、もし、納得ゆく批判が出てそれに納得したら、サッとそれに従うタイプなのです。で、ぼくは感じるのですが、(考えるというよりも、直観で感じるのですが)、「理念上の正義」とは何かと言われたら、人間としての正しい生き方、精神の在り方を論じたらキリがなくあるでしょうが、ぼくはそれをはしょって、ズバリ、現代人としては「人権が保証されている社会の存在」が「理念上の正義」だと感じます。そして、その「理念上の正義」が保証しているのが「法律」であり、それが「現実の不正確な正義」だと考えます。

加藤:私は自分を、純粋思弁を弄する人間だと思っておりませんし、またできるだけ実証的でありたいと思っていますが、いずれにしてもあなたの「お気持」は理解できます。ただ、ここで私たちにとって大切ことが「感じること」なのか、「知ることなのか」、あるいは「信じること」なのか、それとも「知ること」が大切なのか、この点は考えておかねばなりませんね。

鈴木:なるほど、では「感じる」「知る」「信じる」の違いについて、ご教示頂けませんか。

加藤:私の考えでは、「感じる」は文字通り、体で感じるのであって、厳密な知性の関与と裏づけがあるとは限りません。これに対して「信じる」は、何らかの理由で自分の考えに強い自信を持っている状態です。かりに反証があっても、「信じて」いる人は、考えや態度を変えません。これに対して「知る」は、明確な反証が示され、それがもっともだとわかれば「そうなのか」と受け入れることです。私は全般的に「信じる」よりも「知る」ことのほうを大切にしたいと心がけています。

鈴木。なるほど。それなら、ぼくは、常日頃、まず「感じる」ことを多くしますね。そして、「明確な反証が示され、それがもっともだとわかれば受入れる」ので、「知る」ことも多くします。そして「信じる」ことは、「自分の人生が、他人に貢献するためのものであること、その貢献は芸術によってなされること」においてそうですが、それ以外はあまり信じることは少ないですね。

加藤:いや、誰でもそうですよ。私たちは常住坐臥「感じて」います。そして誰でも自分を信じ、友人を「信じて」います。ただ、ある事柄を「知る」べきときに「感じる」や「信じる」に固執することがいけないのだと思います。

鈴木:ところで、話を戻しますと、ぼくがあえて「正義」に関していう時、「現代人として」と強調するのは、「現代」以前の「古代」から「近世」までは「人権」がなく、「人権こそが、人間の幸福のすべての基礎である」という「正義論、思潮」が、数々の市民革命、おびただしい血、限りない涙によって追求され続け、遂に人類が獲得し、到達した地点だからです。ぼくはこの考えに全面的に賛成します。具体的には「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」という世界人権宣言の文言であり、わが国では、日本国憲法第3章、第11条の「基本的人権」の文言がこれにあたります。「国民はすべての基本的人権の享有を妨げられない」とし、「個人の尊重。生命、自由、幸福追求の権利の尊重。法の下の平等。生存権。思想および良心の自由」その他の事項が続き、文言化されています。これがぼくの考える「理念上の正義」です。そして、日本国の六法が、この実現を阻害する要素、犯罪者たちを規制する「現実の、不正確な正義」です。「不正確」ですから、法律は改正されてゆきます。

加藤:なるほど。よくわかりました。あなたのご意見に対して、また別の「正義」を定義する人もいると思います。しかしあなたとしては、異論があってもよいとおっしゃっているわけですよね。私としては、ここで、これほどまでに「正義」という概念語は、各人による解釈の差を生じる言葉だということを確認したところで、今回の対話の結論としたいと思います。

鈴木:えっ? もう、終わってしまうのですか? もうすこし、ぼくの「現実の正義」に関して話しさせて頂けませんか。力説したい点があるのです。それは、ぼくたちが、思索したり、その考えを発表したり、自由に、毎日を安全に生活できるのは、人権が法的に保証されているからだと思うのです。それを破って来るのは、犯罪者ですが、国家という、より上位の暴力装置が、彼らの暴力をはばんでくれています。ぼくは、それを空気のようには思わず、とても意識して感謝しているのです。

加藤:わかりました。自由にご意見述べてください。

鈴木:犯罪者は、突然、自分が耐えられないような被害者になる事件を引き起こします。たとえば、自分が大病で、信頼していた医療機関で輸血を受けたら、その輸血製剤の中にエイズ菌が入っていて、エイズになってしまうことがあるのです。ある製薬会社が、アメリカから、製剤の原料を輸入していた。しかし、アメリカでエイズ問題が明るみに出た。そこで、危険だから、アメリカからの輸入をやめ、他の製剤があるので、それに切り替えようとするならノーマルな感覚。しかし、それでは、エイズ菌の入った血液製剤の在庫分が損をするので、知っていて切り替えず、知らんぷりをして医療機関に収めていた。現実に起きた製薬会社Mよるエイズ感染事件です。輸血を受けた血友病患者の2千人がエイズに感染し、430人以上が死亡しました。当時の厚生省のエイズ研究班班長のT大学副学長のAが、それを強引に導いた疑いで、検察当局は殺人罪等で告発しました。他人の命や健康よりも、自分たちの金儲けを重視した事件です。

加藤:なるほど、具体的なお話ですね。

鈴木:また、自分が購入した高額のマンションが、実は、鉄筋の数を、地震で耐えられないほど少なくされていたので、地震に遭って、倒壊した建物に閉じ込められ、内臓を痛めつけられ、足を失い、以後、車椅子生活者になる。これは耐震強度偽装事件で立件されたH社と、構造計算者の建築士Aとが、やはり、他人の命や健康よりも、自分の金儲けを重視した事件です。

加藤:あれも、まったく困った事件でしたね。

鈴木:また、誰かの家に強盗が入り、妻と娘さんを目の前で犯し、殺し、主人を半死半生の目にあわせ、家に火をつけたので、主人は、目と耳と足の骨を傷つけられ、以後、盲目、聾者、車椅子生活者にさせられた。自分の金品欲しさと性欲の充足と残虐性の発揮が、他人の生命、安全より優先していると考える犯罪者は後を絶ちません。

加藤:本当ですね。

鈴木:ぼくは、人間以外の生き物は天敵がいて、一瞬も緊張を解いては生きて行かれないという持説を持っており、その意味の、人間の天敵は犯罪者であると確信しています。それを念押しするために、上記の例をお話しした次第です。さて、あなたは、さきほど、「現実的な正義」とは、あえて言うなら「広い意味での当事者間で共有できる妥当性」だといわれましたね。あなたは、ここで、「共有できる」ためには、当事者間で、話し合いの中で温和に「共有」でき、妥当性が成立するとお考えですか。あるいは、そうではなく、当事者たちを強制させて、むりやり共有できる妥当性に到達させる、とお考えですか。前者の場合は、犯罪者たちは誰も反省したり、陳謝したり、妥協しようとはせず、無罪を主張するばかりなので、不可能かと思います。となれば、後者の途しかありません。国家と法の名において、司法がより強い力を発揮して、犯罪者の抵抗権よりも強い力で裁き、懲罰しなければならないのです。つまり、あなたのいわれる「広い意味での当事者間でできる妥当性」とは、「不正確な正義」であるところの、国家、法、司法の力によって実現するのではないでしょうか。それがぼくの考えです。いかがですか。

加藤:「共有できる」というのは、話し合ってきめるということではありません。一つの事件には複数の関係者がおり、――そのニュースを受け取る私たちも広い意味での関係者なのですが――各自がそれぞれの立場から「本来はこれが正しい」という考えを持っていると思います。私はそれらをつき合わせ、検討しなければ、当座のものにせよ何が正しいかは軽々にはきめられないと思っているのです。正義がつねに、特定の人が「自分の立場から見た」ことの良し悪しというのでは、ちょっとどうかと思うのですね。なるほど法律は手っ取り早い「正義」の適用法の一つですが、それは「国家維持という立場から見た正義」であるように思えます。たとえば、法律=裁判によって、ある犯人に「実刑3年」という判決が言い渡されたとします。その量刑に私たちが釈然としないとき、「国家の正義」と「私たちの目から見た正義」とにずれが生じているのでしょうね。

鈴木:なるほど、そういう意味でいわれたのであれば、了解です。法律違反という不正義が、犯罪者によってなされた場合は、容赦なく取りあえずの正義、法による刑の執行はしなければならない。それが、ぼくの力点。あなたはそれに加えて、捜査、立件、裁判の過程にも、常に、たくさんの問題点がある、と付け加えられました。まさにその通りですね。近代刑法の理念は、報復主義をやめたので、凶悪犯罪の被害者や世間は、現行法は被害者の人権よりも、加害者の人権を重視しているという怨嗟と批判に満ちています。裁判官もひとの子、量刑にもえらく個人差があります。えん罪もあります。そういう慎重な、幅広い視点を語られた意味で大層意義あると思います。まったく、人間のやる行為は、その意味で、複雑の極みですね。

加藤:私は「捜査、立件、裁判の過程にも、常に、たくさんの問題点がある」などとはいっていません。私としては、いま司法の問題そのものを取り上げるつもりはありません。私が言いたいことは、「人間の数だけパースペクティブの数がある」ということなのです。

鈴木:なるほど。人間は、人間の行為に対して、見たり、聞いたり、判断する時、複雑の極みの中でアップアップするのが常と思います。そこへ行くと、宗教界の大物、正しく悟ったひとはどんな態度をとるのでしょうね。死後、本人の意志とは別に、救世主という冠をかぶせられた、かの偉大なユダヤ教徒の説教者のイエスは、都にのぼれば、伝統主義者たちから確実に殺されると分っていながら、わざわざ行き、痛くて辛い十字架刑にかかりました。ぼくの解釈では、自分の伝統改革路線の限界を感じて、死をもって抗議することで、世間に自己主張を鮮明化したのだと思います。(梯子をはずされた弟子たちは気の毒でした。)いわば、予定の自殺です。彼は、苦痛を与えた加害者たちに対して、ひん死の中で、「神よ、彼らは自分のしたことの意味がわからないのです。彼らを憐れんでください」と言ったとされています。しかし、イエスが、晴天のへきれきの被害を受け、犯罪者のために、エイズになり、地震の下敷きになり、妻子を殺され、重度の身体障害者にさせられた時、犯罪者どもに同じ言葉で祈るかどうか、ぼくには分かりません。もちろん、理論的には、同じ言葉で祈るしか、他はありませんが。

加藤:なるほど。

鈴木:また、正覚者ブッダは、いつまでも、良い状態、悪い状態が続くと思うな。すべての物事は変化して行くのだ。また、あらゆる事象は根本で繋がっているのだ、自分が仮に悲惨な目に合ったとしても、その表面の現象に翻弄されて、いたずらにうろたえるな、といったように思います。彼は最後の旅に出た時、信奉者の提供した食べ物が腐敗していて、それがもとで死んだそうです。もちろん、彼は、死の原因をもたらしたのが、自分に悪意がない者によってであること、死はうろたえるほどの一大事ではなく、うつろい行く現象にすぎないと達観していた彼は、心騒がせず、静かに死んだことはいうまでもないでしょう。だから、理論的には、信奉者でない悪漢たちから、思いもかけずに、エイズにされ、地震の下敷きになり、妻子を殺され、重度の身体障害者にさせられても、加害者と自分が、本質的には繋がっていて、原因あっての現象だという理由で、加害、被害の分けへだてをせず、心しずかに受け入れる筈です。しかし、実際に、ブッダが、生きている間、他人から、手ひどい悪意を受けていないらしいので、そう仮定することしか、ぼくには出来ません。以上の二つの宗教者のエピソードで、ぼくが言いたいのは、あなたのいう「人間の数だけ、パースペクティブがある」という、人間的、相対的現実の中で、信仰によって絶対化される筈の宗教が、どこまで、圧倒的な迫力で、無限のパースペクティブを単一化出来るのかという設問です。

加藤:なるほど。難しいお話ですね。それでは、きょうはこの辺で。

   
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