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言葉と神
 
第6回  「赤い帽子」と「白い帽子」

加藤:前回は「正義」について、宗教論を絡めてあなたご所見をたっぷりきかせていただきました。そのプロセスで、あなたは、「直線」の概念が現実の直線を保証し、裁くように、「正義」という概念が「現実の正義」を指導し、裁くのだという私の結論を先取りしてくれました。また「正義」という概念語の場合、公認される定義が存在しないのだ、という点にもご同意をいただきました。その上で、あなたは当面の現実社会では「法律」が不完全ではあるが「正義」の代理をするのだ、というお話をしてくれました。

鈴木:えぇ。あなたのご示唆に素直に従って、発想を展開しただけですよ。

加藤:そこで私は概念語としての「正義」についてはひとまず理解ができたものとして、先に話を進めたいと思うのですが、もう一度、定義のない概念語の多様性を理解するために、ここで昨今話題となっている「いじめ」という言葉を取り上げてみたいと思います。この「いじめ」という言葉も一見具体的なものをさすようですが、多様性を持つ概念語ではないかと思います。この言葉についてあなたの定義なり、ご意見があれば、お聞きしたいと思いますが。

鈴木:なるほど、あなたは「概念語の持つ多様性」について、今回、さらに、念押しをされたいわけですね。そのために、今、大きな社会問題となっている「いじめ」を素材とされるわけですね。それはまことに意義深いモチーフですね。大賛成です。さて、ぼくは、1994年に愛知県の中学2年生、大河内清輝君が、四人のワルから、長期にわたって百万円以上を脅し取られ、柿の木で首を吊って自殺して以来、日本での「いじめ」の意味は大転換したと思います。「たかが、子供のいじめ」ではなくなったからです。この「現代のいじめ」について考えようとすると、まず、襲って来るのは「あぁ、自殺にまで追い込まれたこどもはどんなに辛い想いをしたろう!」「育てた親は辛かろう!」の感情です。それは「いじめられ、不登校になったこどももどんなに辛いだろう!」へと繋がります。同情と加害したこどもたちへの激しい憎しみの感情です。この問題を冷静に、客観的には語る気はしません。自分のこどもだったら、と想像すると、ひと事とは思えません。彼を、「しょせん、生きる力が弱かったのだ」と言い切るひとがいたら。ぼくは激しく抗議したい。ただし、大人の自殺は自己責任ですから、関心ありません。こどもでも加害されないで自殺したケースには言及する気はありません。

加藤:なるほど、あなたの「いじめ」に対する義憤のほどがわかりました。あなたのご意見と同じように、マスコミや学校関係者の話では、「いじめは悪い」というのが答えのようです。けれども、何がいじめなのか、どんなときにそれが悪いのかを深く考えた場合、私は「いじめは悪い」という一般論で個々のケースを裁けるとはとても思えません。

鈴木:それは、物事の善悪を決して簡単に片付けてはならない、また、片付けられるものではないと、いつも言われているあなたらしい対応ですね。

加藤:子供たちの間での冗談や当てこすりが、時にはひどく辛らつであることは容易に想像がつきます。仲のいい同士ではこれは冗談の続きであって、言われたほうでも負けずに同じようなことを言いかえしていいのです。つまり、対等に「辛らつな表現」が交換されている場合、だれもこれを「いじめ」とはいいません。こうしたいじめの一歩手前にある子供たちの会話や人間関係は、大人になるための練習なのであって、ここである程度もまれないと、主体性のある大人になれない可能性があると思います。ところがもっと婉曲的な表現でも、とき、相手、状況によっていじめになります。つまり、「いじめ」という何かが独立した形で存在するのではなく、それは子供たちの「関係」の中だけにあります。ちょっとしたことでもひどく傷つきやすく、それを気にやむ子供にとっては、教室は日々「いじめの修羅場」となってしまう可能性があります。

鈴木:あなたのいわれる通りです。成長期にある者たちの「対等な関係における当てこすり、非難の応酬」は、こどもが自我を確立し、言葉の機能を学び、すなわち文化を学習してゆく上で、不可避にして必要なことです。そしてまた、あなたがいわれるように、それが、対等でなく、しつっこく行なわれる場合、「追い詰める者」と「追い詰められる者」の「絶望的な関係の構造」が鮮明となり、「追い詰められる者」にとっては、日々の登校は「地獄」となりますね。

加藤:そこでかりに、私たちが「いじめは悪い。してみればこれは正義の問題である。どこかに『いじめ』を判定する客観的な尺度があるはずだ」という態度で臨んだ場合、どのような言葉や態度を、どの程度の感受性を持つ子供に、どのよう示した場合、それがどこから「いじめ」になるか、誰かに決めてもらわなければなりません。ではだれが、どのようにそれを決めることができるでしょう?

鈴木:ぼくは、その点については、右手と左手に1本づつ、計2本の物指しを持つとお答えしましょう。右手の物指しは短く、成長期に必要不可欠な、対等なこどもたちの間に起る心理的、行動的緊張関係を計るものです。「相手の人権を奪わない。許容範囲内のいじめ」、「正義に反しないいじめ」を計ります。一方、左手の物指しは長く、右手の物指しを越えた範囲の「登校拒否や自殺にまで追い込むいじめ」「正義に反するいじめ」を計るものです。そもそも、こどもの基本的人権に立つ時、こどもは「我慢出来る範囲内で学校生活をする権利」があるし、「自殺しないで、幸福に学校生活を送る権利」があり、それが「正義」です。そこで、ぼくは「登校拒否や自殺にまで追い込むいじめ」を「相手の人権を侵害する許し難いいじめ」「正義に反するいじめ」と名付けることにします。

加藤:私はあなたの意見に賛成ですが、どの程度を「長い」とし、あるいは「短い」とするのかを一律に、機械的にきめることは難しいと思います。昔の小学校時代に戻って考えて見ましょうか。あるクラスにひどく「いい子」ぶって先生の評価ばかりを気にし、他の子供たちを見下したような顔をして見ている子、Xがいるとします。他の子供にとってXは、癪の種です。Xの存在そのものが、他の子にとっては一種の異物であり、自分たちにとって攻撃的な何かであり、目障りな存在です。そこでクラスの大多数の子供が、いつかはXを困らせ、どこかで一本取ってやりたい、と考えるとします。これは潜在的に「いじめ」に必要な条件が醸成されているケースです。一般論としては、つまり大まかな正義の尺度で言えば、たとえそれが、大多数の子供たちのやむにやまれぬ気持ちであろうとも、「いじめは悪い」、これは間違いありません。けれども私が大多数の仲間の一人だとしたら、「Xから一本取る」ことが、あたかも正義にかなっているように感じられるかもしれません。あるいは仲間と語らってXに対して「少々ものを教えてやる」ことは、この際必要なことと思われるかもしれません。

鈴木:そのXは、先生という権威者にすり寄り、仲間を見下す態度をとるところをみると、多分、成績も良い方だし、生まれ、育ちも悪くないかも知れません。ただまだ幼いから、親を真似したのかどうか、ひとを見下す態度が、ひとに悪い感じを与えるとは自覚出来ないのでしょう。級友たちが、一過性で「いじめ」、総スカンを食らわせることは、Xに人間的成長をもたらすでしょうから、「正義に反しないいじめ」だと思います。

加藤:明快なご判断ですね。赤シャツとその一味をやっつけた坊ちゃんとヤマアラシのケースは、いじめには当たらないかもしれません。それになんといっても「暴力はいけない」。その通り。しかし私の感情が、どうしても坊ちゃん側についてしまい、あの「快挙」に思わず溜飲を下げてしまう件、あれについてはどうでしょうか。

鈴木:坊ちゃんとヤマアラシ、赤シャツ一味は成人であり、坊ちゃんたちが「権力上位の者に無定見で媚びへつらう者」の人生観を「いやらしい」と感じるのは、一方の「思想の自由」ですが、「へつらって、保身して行く生き方」も他方の「思想の自由」です。この成人間は対等であり、「いじめ」にはなりません。もちろん、ぶん殴る暴力は刑法違反ですが、坊ちゃんは自分から辞職することで、代わりに自分を罰していますね。

加藤:これまた明快なご判断です。ただ、私は誰もがあなたと同じように判断するとは限らないし、あなたに反対する人の意見にも、それなりに傾聴すべきものがあるにちがいないと思うのですよ。このことは、何を意味するのでしょうか。「いじめは悪い」というおおざっぱな価値観を、教室内に現に発生している「ナマの事件」の上に、機械的に適応することは難しいということです。そこで私が推奨したい方法は、事件が起こった場合、一方の軸に、「いじめられた子」「いじめた子」「関係している教室の子供」「そのクラスの担任の先生」「学校環境」「両者の親」・・などの関係者を取り、他方の軸に「何があったと思うか」「何が原因だったと思うか」「今後はどうしたいいと思うか」を組み合わせて作る多象限マトリクスを作成し、その上で総合的にどう考えたらいいかを判断するというやり方です。

鈴木:あなたが提示されたこの「いじめ実態調査表」は、「当該のいじめのあらゆる関係者」の複数の視点と、「実態、原因、対策」の三つの視点を組み合わせたもので、構造の全体像を浮び上がらせる上で、この上なく巧みで、素晴らしいと思います。

加藤:この手法を適用するには、有能で経験を積んだ第三者の専門リサーチャーが必要でしょう。しかもかりに有能な専門家が担当しても、リサーチ結果が正しいかどうかはわかりません。しかしこのようなアプローチをして始めて、一つの事件が何であったのか、何がいけなかったのか、だれがどのように、どの程度悪かったのかを判定することができると思います。答えは決して一律ではないでしょう。このような観点で昨今のいじめに対するマスコミや教育界の反応を見ていると、「いじめる子=悪」「いじめられる子=かわいそう」という、それこそ一律なものの見方、それも局部的な発想が支配的であるように思えてなりません。

鈴木:あなたのいらだちはよく理解できます。それを、ぼくはさっき言ったように、A「成長過程での不可避の、許容されるいじめ」とB「人権を奪う、許せないいじめ」と分け、Bに関してだけは、「いじめる子は悪」、「いじめられる子は可哀想」という一律なものの見方を当てはめても良いと考えます。その理由は、どのこどもにも法の上で保証されている「幸福に生きる権利」を、いじめる子が、一方的、暴力的に奪うからです。

加藤:なるほど。これについても多様な見方や意見があると思います。

鈴木:たしかに、「いじめられる子」の特徴を仮定するならば、「日本人的でない感じ(皆に同調しない、外国人的顔や言葉使い、強い個性)」「頑固者の感じ、わが途を行く感じ」「変わり者の感じ」「不潔な感じ」「のろまな感じ」「ひとをいらつかせる感じ」「いじめてやりたくなる感じ」「良いとこの坊ちゃん、嬢ちゃんくさく、引きずり落としたくなる感じ」「生まれつきの病気や怪我で、顔や身体つきが変わっている感じ」とか、その他があるかも知れません。こどもというものの無意識の心理を、ぼくなりに推察してみると、親の勝手な性行動によって、勝手に、この世にひきずり出され、勉強しろの、校則を守れのと、カッタルイ抑圧を受けて、イライラしているわけです。だから、自分よりも弱そうな、気にくわない者を見付け、人身御供にし、血祭りにあげるのだと思います。

加藤:なるほど。

鈴木:これは、人類の普遍的な属性だと思います。だから、いじめは世界中の学校にあります。「異質な要素の侵入は排除する」のは、生体内のウイルスでもやっていて、ごく自然なことだと思います。ただ、人間はその自然なレベルからレベルアップして、「寛容と協調」を意識的に取り入れなければならないわけですが、そこまで行く途中の、人格未完成なこどもたちの極端な行動が問題となるわけですね。

加藤:そうかもしれませんね。

鈴木:動物は一般に、喧嘩で逃げ腰になった相手を深追いしないとされていますが、当今のいじめは、相手の息の根をとめるまで攻撃するようです。現代の物質文明の有り様を鏡のように写しだしているのでしょう。また、こどもの生きる力、生きることへの執着心、揉まれた中でも頑張る力も弱くなったと言われています。こどもを殺し、犯す大人が多いので、外遊びもままならいとか、PCゲームの方が、身体を使う遊びより、面白いらしいとか、現代病の結果なのでしょうね。

加藤:そうかもしれませんね。私など「いじめを受けている子は、グループから離脱すればいいのに」と思いますが、そうせずにどんどん追いつめられているということがありますね。その場合、当の「いじめられっ子」にとっては、そのグループが唯一、彼を仲間として遇してくれ、認めてくれるコミュニティであり、そこから離脱することが自己の「無化」を意味しているように思えるのではないでしょうかね。そこで、それを承知している仲間は彼がどこまで耐えられるかを試してみる、これが、あの「いじめ」の構造ではないかと思うことがあります。つまり、学校での「いじめ」についていえば、いじめる仲間はある意味では、いじめを通してであれ、彼の存在を認めている仲間である可能性があり、この点はもっと解明されるべきかもしれません。

鈴木:ウーン。そういう解釈もなりたちますね。ただ、クラス全員が、被害者一人を無視して、被害者は孤立無縁で、登校拒否とか自殺するケースもありますからね。

加藤:そうですね。いじめの問題を拡大すると、家庭や職場にも、その延長としての「いじめ」「差別」「偏見」「人間関係」があり、それに伴うトラブルがあります。そしてどんな殺人事件にも、どんな暴力事件にも、もちろんテロリズムにも、複数の関係者がおり、そこには複数の立場と言い分があることは明らかです。しかしかりに、ここに「赤い帽子=悪人用」、「白い帽子=善人用」があったとして、だれが、だれに、どの帽子をかぶせたらいいのでしょうか? たまたま私が正義の法廷を主宰する裁判長であり、しかもまっとうな判断力を持った裁判長であったとしても、いろいろのグレードのピンクの帽子を注文することになるのではないでしょうか。

鈴木:なるほど、あなたらしい、キメ細かい見方ですね。

加藤:ところで、私は生来、赤がかった帽子をかぶっている人間じゃないかと思うことがあります。つまり日ごろ欠点を持たず、善人ぶっておこない済ましているやつ、制服を着て威張っているやつ、自分は「白い帽子をかぶっている」といった顔をしている連中を見ると、むしょうに腹が立つという性質があります。私みたいな存在は、「正義」の一般的尺度からすれば、さぞかし「けしからん者」、「潜在的犯罪者」でしょうね。

鈴木:あなたは「坊ちゃん」に、気質がよく似ているのですね。「行ないすました顔の連中」が偽善的に見えて仕方がない(笑)。でも、あなたは、彼らに手を出すことを考えているわけでも、実際に手を出しているわけでもないから、「けしからん者」ではありませんよ。しかし、たしかに、真の偽善者はいます。例えば、親戚に「虫も殺せない顔をした、品のよいお爺さん」がいるとします。彼は過去、中国戦線、あるいはベトナム戦線で、銃を突き付けて何人も強姦し、殺し、捕虜を拷問して笑い転げ、何人もの首を軍刀で試し切りして、喜んだかも知れません。また、ある有名製薬会社の社長やそのグループのひとたちは背広とネクタイ姿を見るかぎり、立派な紳士です。しかし、戦争中、かの悪名高い石井部隊として、捕虜に麻酔なしで生体解剖をし、細菌やガスを飲ませ、吸わせました。知性豊かな軍医たちが、国のために、生物化学兵器の開発のためにやったわけで、これは実話です。ひとがほんとうに(悪魔の)赤い帽子をかぶるひとなのか、(善人の)白い帽子をかぶるひとなのかは、戦場、収容所、極限の集団的飢餓状態など、極端なシーンで判別されるでしょう。そのときに、そのひとの本当の品位、あるいは本性が露呈されるのではないでしょうか。

加藤:そうかもしれません。

鈴木:あなたが、ご自分を「正義の尺度からみてけしからん者」「潜在的犯罪者」ではないか、などと自己告白されることは、日々の生活感覚とは違う、文学的、哲学的、人間的レベルのテーマとして、素晴らしいことだと思います。ぼくなどは、自分が倫理についてもっともらしい発言をする時、内心、「この偽善者め!」という自己告発の声なしではいられません。というのも、極限状況の中で、ぼくが赤い帽子をかぶるか、白い帽子をかぶるか、自分ではさっぱり分らないからです。

加藤:いや、その点では私も同じなのですよ。ただ、私は自分がいまも白い帽子をかぶっていないことはたしかだし、極限状況でもかぶらないだろうと思うのですよ。ですから、「正義」の問題にしても「いじめ」の問題にしても、「私は白い帽子をかぶっている人間である」という前提でものをいうことはできないと感じています。

鈴木:同感です。さて、最後に、ちょっと「いじめ」についてもう一度触れさせてください。ぼくは「いじめ」が続く原因はおよそ三つあると思います。一つ目は、現代物質文明が中心核に大人自身が倫理律を形成できないでいること。「地震で建てたマンション、潰れたっていいじゃん。金儲けになるんなら」この軽いノリはこどもたちにそっくり映ります。「イジメ、面白いじゃん。ビクつくところがサ」「脅すとカネが入るんだ。たまんねーぜ」「自殺した? 勝手に死ねば。死んで何が悪いのヨ。関係ないわヨ。」。二つ目は学校内の事情。先生方の中の正義感の強い先生方は必死で取り組んでおられるが、加害者と一緒になって「死ね」と色紙に書く加害者先生や、ワルの暴力や親の馬鹿げた抗議や管理職の保身から来る揉み消しにヘトヘトになって、傍観者になってしまう先生方。三つ目はこども独特のモラルとプライドで、親や先生が探ってもなかなか口を割らないこどもたち。チクリがばれたらその仕返しが怖いので。最後に、ぼくの考える解決策は、いじめ行為に点数を付け、それに応じて学校内の「反省室」に入れるとか、停学にするとかし、それを上級学校への内申書に必ず書く制度にする。そうすれば、「いじめをすると、自分が損をする」と分り、いじめは減る筈。今の時代、精神の高貴さを訴えても、程度の低い子には通用しない。損得、打算の勘定で仕込むのがもっとも手っとり早いと思う次第です。

加藤:なるほど、これまた明快な方法ですね。いずれにせよここで「いじめ」という、身近で具体性を持つはずの語についても、その解釈について、したがってまたその対処方法について、各人の考え方は多様で、一筋縄ではいかないということが明らかになったのではないかと思います。では、言葉の問題について、次回はもう少し先に進んで見たいと思います。

   
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