トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
言葉と神
 
第7回  「バベルの塔」が意味するもの

加藤:これまで私たちは「具体語」と「概念語」などの単語、つまり主語となる「名詞」を中心に話し合ってきました。しかし言葉は名詞だけではありません。ここから私たちは「述語」を取り上げなければなりません。児童心理学者たちによると、赤ちゃんは言葉を覚える過程で「一語期」と「二語期」という段階をへるそうです。一語期では幼児は、「ママ」とか「おはな」「わんわん」など、覚えた単語を一語だけを口にします。それ以上複雑なことはいえないのです。このときに用いられるのは主として名詞、それも事物と照合できる具体語です。名詞が独立して扱いやすいということが、幼児にとっての扱いやすさ、幼児に言葉を教える親にとっての扱いやすさにも関係します。

鈴木:ははぁ、なるほど。「一語期」ですか。

加藤:間もなく幼児は、「二語期」に入ります。「おなか、すいた」「おはな、きれい」「わんわんとにゃんにゃん」などです。二語が偶然適切に文を構成していることもありますが、通常は単に単語が二つ並べられただけの、文章以前の文章、すなわち「前−文的」な形式が発話の中心となることは、容易に想像できます。私たちも日常では結構「前−文的」な形式で話し合っていることが多いものです。それにしても、二語期は、「文」の予備段階として重要な意味を持っている時期ではないかと思います。

鈴木:なるほど。「二語期」ですね。それは「文」の予備的段階であると。

加藤:私たちは母国語を通して、この一語期、二語期の段階を通ってきたのですが、そのときの気持ちをいまさら昔に戻って体験することは困難でしょう。けれども、私は英語をしゃべろうとするとき、期せずして「一語期」ないし、「二語期」を実演します。たとえば外国人に何か聞かれて、とっさに言葉が出ず、ただ、「イエス」とか、「シナガワ」とか、「グッド」などとしかいえなかったり、せいぜいよくて「エクスキューズ ミー」などといっているとき、私は期せずして70年近く前の母国語における自分を再現しているのだと感じます。私は英語に関しては、いまだに一語期ないし、二語期にとどまっている状態です。

鈴木:ははは。何をおっしゃる。ぼくはあなたが英語を今でも勉強され続けていらっしゃることを知っていますよ。ネイティブ スピーカーを家庭教師にされるほどの熱心さでね。

加藤:それはもう過去の話です。私がいつまでも二語期を脱しないので英語の先生に見放されてしまったのです(笑)。いずれにせよ私たちは名詞の単語、それも具体語から出発し、単語と単語を繋いで「文」を作るようになります。そして「文」を用いてコミュニケーションするようになります。幼児はおそらく、自分が「文」を用いて話すとき、急に周囲の大人が真剣にこちらを向き、眼を見、耳を傾けてくれるという点に気づき、これに励まされて一語期を脱し、次第に複雑な「文作り」に目覚めてゆくのだと思います。

鈴木:なるほど、幼児たちは、ぼんやりと片言を操っているわけではなく、そのことで、大人たちが自分に関心を持つことに気付き、喜びを感じ、それがモチベーションになって、さらに、自分たちの文を向上させているのですね。なんといういじらしい気持でしょう。それが、祝福されて生まれ、可愛がられて育つ、ノーマルな幼児たちの心理なのですね。

加藤:私の見るところ、ある程度ととのった「文」への移行は、小学校の低学年においてかなり顕著です。この時期の子供たちは、求められれば、発話を立派な文の形を持ったステートメントして表現できるようになりますが、まだ幼児の痕跡は残ります。それは彼らがかしこまってものを言うときの「・・デス」という強調された語尾の中に見ることができます。「文」の体裁は「・・デス」という語尾をともなってはじめて完成しますが、子供たちはこの不慣れな「文」の体裁ルールに従うために、ことさら「・・デス」の部分を強調するのです。私はこの子供たちの「・・デス」を聞くたびに、ああ、この子も、「文」を通しての社会参加を始めたのだ、という感慨を深くします。

鈴木:あぁ、あなたが、どこかのこどもが、かしこまって、お行儀よく、背筋を伸ばし、あなたに「ハイ、あたしの父もスパゲッティーが大好きです」なんて言うのを、目を細めながら聞いているシーンを想起します。暖かいシーンですね。

加藤:「文」は、原則として「主語」と「述語」から成り立っています。つまり話されるべきことがらと、そのことがらやものの状態を表現する言葉との結びつき、これが「文」の基本構造です。私の幼稚な英語体験を自己観察して言うならば、発話において、述語が先に来るということはありません。つねに主語となる名詞が先に口から出てくるのです。親も子供に述語を先に教えるということはありません。子供は咲いている花を指差して「おはな」といいます。この主語表現の中には、やがて来るべき「・・がある」「・・が咲いている」「・・がきれい」、あるいは「・・がほしい」が隠されています。あるいは「ぼくは、これが・・であることをしっているよ」ということかもしれません。

鈴木:なるほど、文の基本構造は、まず主語となる名詞が来て、その次に述語が来ると。そういう順番なのですね。例えば、イタリア語の会話では「わたしは食べる」と言う時、「わたし」という主語は省略しますが、それでも、それは、たんに、習慣上の問題にすぎず、文としては、あくまで「わたし」という主語はあるわけですからね。

加藤:そうです。「述語」を使えるようになるということは、子供が人間社会の仲間入りできるようになったしるしです。じつに述語こそは、人間の知性の最初の勝利であり、文化と文明の基礎だといっていいでしょう。学者が何というか分りませんが、私は述語をともなう二語期に到達したとき、私は真の人類、ホモ・サピエンスが誕生したのではないかと想像します。フーコーは、フランス語の「エートル」すなわちBE動詞の発明をもって人類の知的夜明けとしました。彼は「この語がなかったら、森の中で発せられた叫びは、どれひとつとして言語の偉大な鎖を結ぶことはなかったであろう」といっています。私はこれを少し拡大解釈して、述語が「人間」を作った、といいたいと思います。

鈴木:なるほど、問題は、最初に来る主語ではなくて、その次に控える述語なのだ。それこそが、人類、知性、文明を構成した原初的要素なのですね。そのことの意義を今、改めて教えて頂くと、なりほど、そうなのか!と認識を新たにしますね。凄いことなのですね。例えば、深い太古の森で、ホモ・サピエンス以前のある猿が、別な猿と出会ったとする。「おや、こいつはいやな奴」と思う時、彼の心には述語がないので、「いやな奴デアル」とか「いやな奴デハナイ」ということはないのかも知れませんね。「いやな奴」ですべてが終わってしまうのかも知れませんね。なるほど、興味深いことですね。

加藤:最近の話し口調で、話の途中で語尾を上げ、いったんそこで止めるという話し方がはやっていますね。中には、語尾を上げただけではまだ足りず、相手のあいづちを待たずに、自分で自分の話にあいづちを打っている例なども見られます。こうした風潮は、日本語が流暢に話せず、相手の反応を確認しながら話す外国人の話し方を日本人が逆に真似てしまったのではないかと思いますが、述語交じりの「文」を滑らかに話せるようになることが「大人になることだ」、という前提を立てて考えてみると、明らかに退行現象のように思われますね。

鈴木:ほぉ、その具体的な会話の例文を聞かせてください。

加藤:たとえば、ある人が意見を聞かれて答えるような場合、正規文の形に直したとしても、「私は、これは**? だと思います」と答えるのですが、この文の「**?」のところで語尾を上げ、相手の反応を待つのです。これは自分自身の言明に自信を欠いているように見えます。じっさい、外国人の場合、ここでボキャブラリーが正しいかどうか確認しているわけですね。現代の日本人の場合、おそらく自信がないのと、外国人訛りを真似たいのと、その両方の理由が合わさって、こういう妙な、話し方が流行しているのでしょうね。私にはとても聞き苦しく感じられます。というのも、私は相手から半信半疑のステートメントではなく、責任ある言葉を聞きたいからです。

鈴木:なるほど、であれば「わたしは、これは日本人の欠点だと思います」という例の時、「わたしは、これは日本人の欠点」--で停めてはいけない、ということですね。賛成です。ちゃんと言い切ってもらいたいものですね。

加藤:そうです。「述語」は主語以上に、総合的に意味を操作する言葉であり、それを使うとき、人、ところ、そのときの状況や使い方に応じて、千差万別の意味の偏差を作り出すのです。主語となる単語は、述語の使い方でまったく否定されてしまったり、条件をつけられてしまったり、拘束されてしまったりするのです。「これは鉛筆である」という文は、「これも鉛筆である」「これが鉛筆である」「これは鉛筆でない」「これは鉛筆のようだ」「これは鉛筆かもしれない」「これは鉛筆と呼ばれていた」・・などのヴァリエーションのもとになっています。つまり鉛筆という主語は、述語によって決定的に制約を受け、左右されます。名詞の単体提示は、たいていの場合、そのものの存在を示しますが、述語はこれを一瞬のうちに否定してしまったり、その存在をあいまいなものにすることができるのです。

鈴木:ほぉ、述語というものは凄いものですね。まるで、お伽話の中の偉大な超魔術師のように、マントを振るって、一瞬のうちに世界を作り替えてしまう力を持っているのですね。

加藤:同じ文字要素からなる文でも、イントネーションによっては、文意が変わることもしばしばです。たとえば、「私は鉛筆が欲しい」という言葉は、それを言う時の口調や態度によって「筆記用具なら何でもでもいいから持ってきてくれ」という意味から「黒鉛芯の鉛筆が必要だ」、あるいは「私は特定の鉛筆を所有したい」という意味までをあらわすことができます。現に私たちはこうしてお互いに会話を進め、相手の言うことを何とか理解し、社会生活を営んでいるのです。述語の込み入った使い方やそのニュアンスは、おそらく共通の母国語の中でしかお互いに伝わらない可能性さえあると私は思います。また、コミュニケーションの失敗は、名詞の意味的偏差に輪をかけて、述語の意味的偏差が関係してくるからだと私には思います。

鈴木:確かに、ネイティブ・スピーカー同士でなければ、伝えあえないような、微妙なニュアンスの例はごまんとありますね。そして、それは、主語的、名詞的なレベルのことよりも、述語的レベルのことの方が多いと。例えば、ギャングが斜に構えて「持って来な!」と言う時、その真の意味は「持って来るんじゃねぇ。持って来たら、叩き潰してやるぞ!」という場合があるわけですからね。

加藤:なるほど、それはすごい例ですね。ところで私たちは今日、「文」を「会話」と「書き言葉=記述」の両面で表現しますが、会話文の方が記述文よりも自由で、ニュアンスが富んでいることはたしかだと私は思います。お互いにその場の状況を共有していることが多いし、話の続きも分っていますので、代名詞での置き換え、それに不完全なままの文同士で、けっこう会話は成立します。たとえば、「私は彼の真似はとても・・・」というような、中途で止めるような言い方があります。この文章は不完全です。しかし私たちは「私は彼の真似はとてもできない」というように、言葉を補って相手の言いたいことをつかむようにしています。最近はテレビのインタビューなどで、回答者の話し言葉が、テロップに文章として表示されるような場合もありますが、不完全文の場合、完全文への意図的な置きなおしがおこなわれていますね。

鈴木:なるほど。会話文は記述文にくらべてラフですね。しかし、ラフであるということは、互いにそれの真意を了解しあえる土台があるということで、それに甘えあった関係にあるわけですね。あえて言えば、記述文は無機的であり、会話文は有機的であるというような。この場合の無機的とは、人情味、あいまいさを含まず、論理の伝達を主眼とする、という意味で、有機的とは、人情味、あいまいさを含み、感情の相互伝達を主眼として、論理の伝達を重視しない、というような意味ですが。

加藤:そうですね。この意味で、会話だけによる議論は、往々にして不完全文の応酬となることが多いかもしれません。とかくかみ合わない議論など、文も不完全なら、ロジックも不完全ということが原因となっていることさえも考えられますね。いずれにしても、書き言葉と話し言葉の文章はともに手を携えて進まなければならないのでしょうね。

鈴木:確かに、議論の目標が、論理の完成であるなら、記述文は大いに強みを発揮しますね。その通りです。しかし、あなたが言われるように、書き言葉と話し言葉は、どちらかに偏重すべきではなく、ともに響き合って行くべきですね。話していても、正確に論理性を失わず、しかし、まろやかに人間味、人情味を忘れないならば、理想的かも知れませんね。

加藤:先ほど私が例としてあげた、「私には彼のまねはできない」という文は、同じ文でありながら、使われ方によっては私が彼のまねをしたいと思っていることを表現する場合もあるし、真似をしたくない、あるいはするつもりがないと思っていることを表現する場合もあります。よく考えて見れば、この短い言葉は、「彼」に対する大いなる敬意から、大いなる軽蔑の両方を表現することができるのです。しかも、このような言い方をする場合、聞き手が敬意、あるいは軽蔑のどちらにとってもいい、と話者が考えている可能性すらあります。同じ言葉でも「額面どおり」であったり、「慇懃無礼」にさえなったりするというのは、主として、述語的な表現の中で生じてくる偏差にもとづくものです。

鈴木:なるほど、ある対象に、言葉のうえで「敬意」を払ったり、「軽蔑」したり、「慇懃無礼」の形で攻撃出来るのは、言葉の中の述語の部分なのですか。華やかに会話に打ち興じているPTAのご婦人たちの会話に注意深く耳を傾けると、その中に、嫉妬、当て擦り、攻撃などを、容易に見出せるでしょうし、国会討論などで、慇懃無礼なやりとりの中に、ごう慢、怒り、逃げ隠れなどをありありと感じることはありふれたことですものね。

加藤:そういうことですよ。こう考えてくると、言葉が「述語」の登場によって「文」になったときから、言葉はいっそうの複雑性を持ちはじめたのだと考えていいのではないでしょうか。おまけにこれに「概念語」が加わってくるのです。私は「バベルの塔」の寓話は、単に民族や地方による言語の偏差の問題だけではなく、一国の、一民族の、一地方、あるいは一集団の中にさえもたらされた、言語的な意味の多様性と混乱を象徴しているのではないかと思います。これほどの意味の多様性と偏差があるからこそ、私たちは男語と女語、書き言葉と話し言葉、ぞんざいないいかたと丁寧ないいかた、上品と下品、日常とフォーマル、文学的表現、象徴的表現、各種の業界用語、技術用語、専門用語・・・などの区分がおのずから生まれ、その発展と拡大はとどまるところを知らない状態なのだと思います。これでも私は、いま外国語や方言や訛りや外来語や造語などのことは除外しているのです。

鈴木:あの有名なバベルの塔の寓話の意味を、ぼくなどは額面通りに、言語の違いというレベルだけで考えてきましたが、あなたが、さらに、帰属集団内部での、言語の述語的性格から来る複雑性へと、より深く洞察の歩を進められたのは素晴らしい功績ですね。賞賛します。

加藤:いやいや、恐れ入ります。

鈴木:ところで、述語的性格からくる複雑性から、わずかにズレますが、複雑性自体を少し考えてみようと思います。複雑性の中にあっても、人間は常に、討議し、論理を組み立て、論理を摺り合わせ、妥協に妥協を重ねつつ、前進しなければならないのですね。つまり、ぼくは政治討論のことを想起しているのです。例えば、イスラム教が倫理と救済の面で、帰属集団内で自己完結していた時代は、問題なかった。しかし、近世以降、自己完結世界が外部のより強力なキリスト教文明からのゆさぶりを掛けられ、物質文明と精神文明の両面で、いわば、二流扱いをされてしまった。このことから来るプライドの傷付き、恨み、怒り、これがもっとも先鋭的に表現されているのがテロだと思います。しかし、日々の政治では、その根本の論理にさかのぼって検証し、討議しているヒマはなく、自衛艦によるインド洋での米軍艦隊への給油の是非を今すぐ決めなければならない。些末な現象と矛盾による紅蓮の炎は、まるで、15世紀、ネーデルランドの画家ボッスの描いた世界の終末図のように、地球の表面で、燎原の火のように立ち上がっている。人間は一方で、純粋思弁を深め、それを歴史認識に応用し、論理の整合性を追求しなければならないが、一方で、現象の火を消すために拙速な小論理を駆使しなければならない。ここに、哲学、学問とは違う政治独特の苦しみ、政治討論の限界があるような気がします。しかし、絶望せずに、討論し続けている政治があってこそ、独裁制でない、議会制民主主義がなりたち、それによって、日々の暮らしが成り立っていると考える時、ぼくなどは政治家には感謝するつもりです。高貴な思弁を生み出すのも人間なら、排泄物、腐敗物を放出するのも人間。その腐敗物を分解してくれる昆虫や、彼らの体内微生物もまた、同じ生物で、こうした連関あってこそのこの世で、いずれも尊いものだと思います。あなたが今回、言語論の範囲内で語られた世界のカオス性を、ぼくなりに現実論として拡大してみたことをお許しください。

加藤:いつもながら、あなたのイマジネーションのふくらみ、修辞の立派さ、理論応用の闊達さには敬服します。それではこの続きはまた次回。

   
←第6回へ 目次へ 第8回へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.