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言葉と神
 
第8回  概念の国境線はどこにあるか

加藤:前回は、述語についてお話し合いをさせていただきました。私たちは、言語史に述語が登場したことよって、人間としての感情表現、意思疎通が可能になったということを考えたのですが、同時に述語によって、言語がいっそう混乱を増す要因を抱えたということを話し合いました。今日は、「言葉と区分」の問題について考えて見たいと思います。

鈴木:ほぉ、「言葉と区分」、どういうことでしょうか?

加藤:私はいつも「手首」という言葉を考えています。手首とは、手首の周囲部分のことでしょうか。それとも手首から先のすべての部分でしょうか。おそらく、手首の周囲部分のことでしょうね。では、手首は厳密にいって、手のどの範囲をさすのでしょうか。同じことが「首」「頭」「二の腕」「肘」についてもいえます。私には、およその場所をいうことはできますが、その境界線を示すことはできません。外科医にとってはこの部位の規定ははっきりしているのでしょうか。ちょっと心配になってきます。

鈴木:えっ? あなたのご心配を聞いてびっくりします。「手首」を辞書でひくと、「腕と手の平との繋がる部分。もしくはその先の部分」とありますが、ぼくにとっては、物事の定義は、辞書によるものを頭に入れればそれで、基本的に良しとします。辞書もひとが作るもの、差違があって当然ですし、あとは自分流に解釈すれば良いと思っています。それは万事アバウト的なぼくの性格から来るものですが、今、あなたの「定義」に対する態度を聞いて、なるほど、こういうこだわり方があるのだ、というのも発見ですし、そういう厳密さへの執着こそが、あなたらしさであり、それが、あなたの言葉や論理の基底に存在するのだな、と改めて再認識します。

加藤:辞書についてのあなたのお考えは、なかなかいいですね。私も辞書を引こうとする場合にはかならず、「自分はこう考えるが、辞書にはどう書いてあるだろうか」と考えることにしています。まったく知らないことについては、見当はずれをして、自分でも笑ってしまうのですが、ときには「この説明は変だぞ」と思うこともあります。まあ、辞書論もやりだすときりがないので、この辺にして話をもとに戻します。要するに、連続した部分をさす言葉は、それが相当に具体的な言葉でも、つねに境界線があいまいなのです。もっとも厳密でなければならない数学においても、「2コンマ5」が「2」に属しているのか、「3」に属しているのかは定かでありません。「四捨五入」は一般的ですが、「五捨六入」でおこなわれる計算法があることもご存知のとおりです。

鈴木:確かに、自然科学の研究の世界では、アバウトでは駄目で、例えば、ナノグラムというのは、千分の1のさらに千分の1の量だそうで、そんな具合に、とことん精緻に実態に迫ることが前提なのでしょうから、あなたの感覚の中に自然科学者的な要素が色濃くあるのかも知れませんね。

加藤:いや、科学者的というより、ビジネスマン的といっていただいたほうがいいと思います(笑)。ビジネスで思い出しましたが、近所の不動産屋の幟旗に「築浅」という言葉が出ていました。何のことかと思って首をひねりましたが、これは「建築されて間もない」という意味なのです。では「間もない=築年が浅い」とは建築後何年のことをさすのでしょうか。ということは、「古い」「新しい」「若い」「年を食っている」などの言葉は、使われる場所、状況によってまるで違ってくるということですね。

鈴木:この「築浅」という言葉は、自然科学の分野ではなく、都市文化、風俗文化的な言葉ですから、いかにも軽佻浮薄なところが、かえって人々に「現代都市文化性」のニュアンスを伝える効用があるのではないかと、ぼくは受け止めてしまいます。ここでは、ぼくは勝手に、築後1〜2年と勝手に決めていて、それが3年であっても、所詮は宣伝術と苦笑して終わるでしょう。

加藤:不動産屋の件に悪乗りして言えば、「駅から5分」といった場合、出発となる「駅」は駅舎のどの部分をさすでしょうか。また到着地点である「家」について考えた場合、「家」のどの部分をさすでしょうか。ちなみに私のマンションの場合、マンションの1階入り口から、私の部屋までの移動時間は短いときで1分15秒、おそい時には3分ほどかかります。小さな駅舎の中の移動だけでも通常の徒歩で、3分程度はかかるでしょう。

鈴木:たしかに自然科学の研究では、そのような厳密な態度で臨まなければ、細菌の世界であれ、遺伝子の世界であれ、何であれ研究は成り立たないでしょうね。

加藤:たとえば、「資本主義」という言葉は、「社会主義」「共産主義」などという言葉の対比概念として機能しています。では、「資本主義」とは、どのようなものであり、それが実現している社会をどのように規定したらいいでしょうか。たとえばアダムスミスが「国富論」で提唱した程度に、国家管理が最少限度となっている経済体制を言うのでしょうか。それともある程度、主要な経済活動が国家管理されている経済体制に関しても、「資本主義」といっていいのでしょうか。また「資本主義」と「ニュー・キャピタリズム」の本質的な違いはどこにあるのでしょうか。

鈴木:あなたが今、あえて「資本主義」という言葉、あるいは概念についての定義にかかわる問題点を持ち出されたのは、定義すること自体が目的ではなくて、例えどのような形で定義されようとも、その実態を完全、かつ無誤謬に包括出来る定義などは出来るものではないのではないか、というお考えを示唆するためではないかと思われます。

加藤:その通りです。

鈴木:ぼくは資本主義は、人間の欲望、前進願望を表現しやすい良い制度だと思います。しかし、スーパー強者、強者、弱者、脱落者という四層構造の中で、各層の間に人間としての連帯感がなく、特に弱者と脱落者には人間として生きて行こうにもしっかりした保障もないという悲惨さが付きまとうところが欠点かと思います。社会主義は、そこを解決しようとして、上からの統制経済を試みましたが、統制は腐敗と堕落しか生み出さないという結果になりました。しかし、社会主義以外の切り口で、資本主義が自ら変革して行かないと、イスラム教文明との抗争で、地球の混乱は続くと思います。スーパー強者、強者の既得権益を、もう少し押さえて、その分を弱者、脱落者に循環してゆくような、循環構造にすれば、欲望が強い者は限りなく利益を追求すれば良いし、弱者、脱落者は人間性をもう少し保障して貰えるのではないでしょうか? その点、イスラム教文明は自由を犠牲にして連帯構造を確立しており、資本主義文明の徹底したエゴイズムにいらだっていますからね。しかし、資本主義が自由を持ちながら、連帯構造を確立すれば、イスラム教徒たちもそれをよしとして歩み寄る可能性があるかも知れません。

加藤:ははあ、いつもながら、あなたらしい、図式的で、明快なご説明ですね。しかし私は「資本主義」という言葉の定義や、今後の世界の経済体制の問題には立ち入らないことにします。むしろ私は上のような「言葉の区分」のもとになっている考え方について考えて見たいと思います。私たちは以前にこの対話の席で、「善と悪」の問題に関して、「二項対立」について話し合ったことがありますね。たとえば「善と悪」「神と悪魔」「男と女」などというのは二項対立ですね。これは要するに言葉の、とくに対立的な「区分」を物語る典型的な事例だと思います。ところで私は、「厳密な二項対立を設定することはできない」という考えを持つようになりました。そんなことをいっても、「男と女」「生きている人と死んでいる人」「日本人と外国人」という具合に、両極の意味をあらわす言葉はいくらでも設定できるではないか、といわれるかもしれませんね。けれども私は、二項対立は、ある命題を証明しようとするための仮の設定事項であって、しかも、その設定には命題以前の、ある種の予断を排除することができないと思うようになったのです。

鈴木:ほぉ、二項対立で設問をすることはすでに間違っているとお考えなのですか?

加藤:「間違っている」とまではいいませんが、いきなり持ち込まれる二項対立的な説明には、ある種のまやかしが混入すると思っています。たとえば、幼い子供が寝る前にオシッコをさせようと思う親は、「寝る前にオシッコをしたら?」というよりも、「お父さんとオシッコに行くの、それともお母さんと行くの?」と聞くべきでしょう。後の場合、子供は「するかしないか」ではなく、「父か母か」の選択を強いられているわけですが、子供にはこのことはわかりません。つまりうまく設定された二項対立には、前提命題を隠蔽してしまう働きがあるのです。

鈴木:えっ? おっしゃる意味がよく分りません。子供は寝小便の可能性やトイレに起きる必要を防止するために、寝る前に必ずオシッコをしなければなりませんよね。子供に訊ねる必要はなく、命令で良いと思うのです。あなたが言いたいのは、単純に命令すれば良いものを、父と行くのか、母と行くのか、などと二項対立を持ち出すのは間違っている、それでは、就寝前のオシッコは当然という命題を隠蔽してしまう、ということなのですか?

加藤:間違っている、というのではなく、狡猾な親はこうして子供を丸め込むのだ、といいたいのです。そして、私たちは二項対立的な話の枠組みに入ったとき、こうした「丸め込み」にはまる可能性があるといいたいのです。たとえば、人間を「男と女に分けると、男は***という特性を持ち、女は***という特性を持っている」という命題があって、――実際このような話はごく一般的におこなわれますよね――この***に相当する部分に、いろいろな言葉が入って、その人が主張したい命題が出来上がります。けれども、この「***」の部分にかりに「男は男性生殖器を持ち、女性は女性生殖器を持つ」という説明が来るのだとしたら、これは定義を反復しているだけであって、すこしも命題を発展させたことにはなりません。これは「男は男であり、女は女である」というのと一緒ですね。

鈴木:まったく、その通りです。同義反復は感心出来ませんからね。

加藤: しかし、かりに上の命題の「***」の部分に、「男は勇気があり、女は勇気がない」とか、「男は低い声で話し、女は高い声で話す」などという説明を入れるとしたら、それは明らかに正しくないメッセージでしょう。かりにたとえ「勇気」とか「高い声、低い声」という定義の問題が先に解決しているとしてもです。

鈴木:そうですね。しかし、一般論としては、男女の差違は、例えば性欲に関してはかなり明らかな差違はありますよ。男は定期的に体内に溜って来る精液を、女性器の中に定期的に排泄しなければいられないという固有の生理を持っています。このために、例え愛情がなくても、とりあえず排泄出来る対象としての女性の身体を本能的に求めます。この行動のために、男は女性から「節操のないけだもの」「浮気もの」と有史以来攻撃され続けて来ました。もちろん、男はこのレベルで留まっていては良くなく、愛する一人の女性を決め、彼女との性事に没頭することが幸せに繋がります。一方、女性の性は排泄ではありません。それは性事において今、好きな男から可愛がってもらっているという精神的癒し感の満足が中心であり、感覚の愉悦も導火線に火を付けられてはじめて燃え上がる受け身型です。相手の男性は、あくまでも、精神の鎮座する相手の上半身を含めた全身の認知が必要とされます。また、好みの男性であれば、不特定多数でも良いのかとなると、決してそうではなく、たった一人の男性で十分で、それ以上の男性との性的接触は嫌悪でしかないのです。このように男女の性欲は反対の性質から成り立っています。もちろん例外はあります。男性を強姦して新聞種になる女性もいれば、男でも、人間的な愛情を伴わなければ、性事より禁欲を選ぶ者もいます。以上、二項対立の概念で語ることがあり得ると思われる例に言及してみました。

加藤:なるほど。あなたらしいご説明です。ここでも、私は男女の区分や定義に深入りすることを止めておきましょう。というのも、ここでもし私が男女の性欲のちがいの話にうっかり入ってしまうと、「人間の性欲を男女に分けて論議することが可能だ」という前提に、私が無条件で同意させられてしまうことになるからです。そこでさきほどの、私の男女区分と、人間の「勇気」や「声の高低」という問題に関していえば、語り手は人間の性的区分が有効だという当然の自信または、仮説を持っているのですが、それ以前に、ある事柄に関して、人間を性的に区分することが可能であり、有効だという予断を持っていることがはっきりしています。これが、私が「隠蔽されている前提命題」と呼ぶものです。そこで私は「どんなものであれ、二項対立的な説明は怪しい」と考えているのですが、その理由を整理すると以下のようになります。
1.説明に際して、どんなものでも二項に区分できるという前提が怪しい。話者は聞き手の同意を待たず、それをわかりきったこととして、説明を進めようとする傾向がある。
2.かりに、前提となる二項対立的な区分が妥当であったとしても、それに続く説明は図式的にならざるをえず、かならず「例外」を無視する結果になる。そこで命題の多くは正しくないメッセージとなってしまう可能性が高い。
3.しかるに話者はその「例外」については「無視していい」という憶断を持つ。

鈴木:なるほど、あなたが非常に懸念されていることは、二項対立の概念内容に、厳密な検討を加えないで、それに安易に寄り掛かって議論する態度ですね。

加藤:同じ二項対立でも「5歳以下と5歳以上」「北緯**度以北、以南」など、連続した概念に明確な区分線を引ける場合は、――もっともこれを二項対立というかどうか、私にはわかりませんが――区分を立てることには意味があるように思います。けれども、「資本主義と共産主義」というような、概念的な二項対立は、「神と悪魔」のように、その概念がずいぶん古くから用いられ、人口に膾炙されたものであっても、よく考えると怪しいのではないかと思います。それは、言葉の区分がもともとあいまいであることから来るものです。私たちは、このあいまいな区分にもとづく概念をあやつってコミュニケートしているわけですが、結果として相互に誤解や無理解、齟齬が生じるのはやむをえないことではないでしょうか。これまたもうひとつのバベル現象の要因です。

鈴木:確かに、ひとは「陰と陽」「天と地」「危険と安寧」「成功と失敗」「病気と健康」「才能と無能」「神と悪魔」「善と悪」など限りなくある二項対立の発想や表現が好きという傾向はありますね。語呂合わせ感覚も多少関係しているのかも知れませんね。あるいは、こじつけかも知れませんが、ひとの目、耳、鼻の穴、肺、睾丸、手、足などの器官が二単位から構成されているのも、ひとが「二」を好む一因かも知れませんね。しかし、今回の議論を伺うと、自分が二項対立という概念にいかに安易に寄り掛かって来たかが、思い知らされます。それもまた、「バベルの混乱」の一要素なのだという今回のご指摘は、本当に、有意義ですね。ご教示に感謝したいと思います。

加藤:いや、いや、とんでもないことです。

鈴木:最後に、「国境線」という言葉から、ぼくの連想を付言します。「国境」と言う概念は、歴史的には「国」が成立したからこそ、発生した概念かと思います。「国」の成立以前は、遊牧民などが、自由に大地を行き来していたかと思います。もちろん、部族としての境界線はあったでしょうし、そこを挨拶なしでは自由には移動出来なかったでしょうが。しかし、国境にとらわれない遊牧民には、何かロマンを感じます。かつてイスラエルでベドゥイン族のテント内に座ってみたり、パリでクルド人の民族祭りを見たりしたした時には気分が高揚しました。パリでは日本の牧師さんをお連れして、「国境なき医師団」のオフィスを訪ねたこともありましたが、フランス人の医師たちによる「国境なき医師団」の活動も立派です。もっとも、遊牧民の文化は、テレビも書物も携行できないので、文明としての結晶力は少なく、定着文明を主流とする現代文明からは、評価の限界はありましょう。そして、国境というような明確な「区別」、そこから派生する万事に対する「概念規定」の厳密さが基礎となって、現代文明の花が咲いたのでしょうが。

加藤:それは貴重な体験をされましたね。区分も規定もともに重要なものに違いありませんが、自由に思考するためには、ときには言葉の、既存の国境線を無視することが必要な場合もありそうですね。いや、今回も有益な議論を有難うございました。それでは次回。

   
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