トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
言葉と神
 
第9回  騙される人は自分を騙している

加藤:前回の対話では、私たちは言葉による「ものの区分」の難しさについて検討し、さらに進んで「二項対立」の問題を検討しました。今日は、「象徴」あるいは「暗示」「隠喩」という言葉の作用から話をはじめたいと思います。かりに話を単純化するためにこれら一連の言葉をまとめて「象徴語」と呼ぶことにしましょう。これらの象徴語は、それが本来持っているオリジナルな意味のほかに、そこから派生してまったく別の意味を担うという奇妙な特性を持っています。

鈴木:ほぉー、言葉の「奇妙な特性」。あなたによるまた新たな発見ですね。それはどんなことでしょう?

加藤:「象徴語」は、主語についても存在し、述語についても存在します。たとえば、「鉛筆」や「コップ」といった、私たちがすでに検討してきた言葉に関しても、それは象徴語として機能する可能性があります。たとえば、ある文脈の中ではそれは男性器や女性器を暗示させることができます。フロイト派の人々は、この手の象徴的解釈に通暁しているようです。また、「帽子」という言葉は文字通り「帽子」の意味ですが、象徴的には「てっぺん」「組織のトップ」「おかざり=機能しないお偉方」などという意味にまでなります。

鈴木:ははー、いわゆる「暗喩」などのことですね。それを「象徴語」という概念でくくってみるわけですね。

加藤:そうです。私の見るところ、象徴機能は「単語」のままでも「文」としても、発揮されます。「帽子を取る」という文は、文字通りの意味と、やや発展して「礼をする」という意味、さらには「尊敬する」「敬意を払う」という意味にまでなります。シューマンがショパンを評して「諸君、脱帽、天才だ」といったのは、人々に帽子を脱ぐように命じたわけではありませんよね。げんに「脱帽」という日本語はおおかたの意味としては「参った」「恐れ入った」という意味で、――つまり象徴的な意味で使われるほうが多い言葉になっているのです。

鈴木:<象徴語>は単語だけでなく、文としても存在すると。まったくその通りですね。

加藤:こうして改めて私たちの身の回りを見ると、象徴語や象徴文、たとえば「左利き」「左うちわ」「みこしを担ぐ」「ちょうちんを持つ」「ねじを巻く」「スイッチを切り替える」・・など、じつに多くの象徴語、象徴的表現があふれていることに気づきますね。私たちは、これらの象徴語を取り入れ、活用することによって、コミュニケーションをより円滑にしたり、効果的にしたり、愉快にしたり、活性化している、――つまり人間の表現、感情の生活を豊かにしているのだと思います。私はとくに、ある種の象徴語が、ある特定の集団の中で「隠語」として用いられることで、その集団の結束を増したり、帰属意識を高めたりすることに役立っていると思います。

鈴木:なるほど、ひとつの言語文化圏では、言葉がそのように「象徴化」によって、別の仮面を付けるわけですね。それは言語文化の豊かさを意味するわけですね。同感です。また、それは「象徴化」の持つ「秘儀性」によって、ある集団固有の内部結束を表わすのですね。確かにギャングとか若者たちは「隠語」としての「象徴語」を使いますからね。

加藤:その通りです。「主語」「述語」、それにまた「言葉が示すカテゴリーの境界線」のあいまいさ、それら両方にからむ「象徴」、・・こう考えてくると言葉の偏差はあまりにも大きく、言葉によるコミュニケーションが、きわめて危うい偶然の条件の組み合わせによってやっと成立しているのだということを感じます。そこで私は二つの意見を持つのです。一つは「私たちは言葉に対して、あまり素朴すぎてはならず、あまり言葉に頼りすぎてはならない」ということであり、もう一つは「これだけの多様性と偏差の中で、互いに意図が通じ、心が通じるコミュニケーションが可能となるのはすばらしいことだ」ということです。

鈴木:「象徴語」はひとによる受け取り方の偏差が大きいという性質があるために、使うにあたっては注意しなければならないが、同時に、相互理解の幅の広さを証明してくれることにもなるのですね。

加藤:まったくその通りです。言葉についての感覚や教養の共通性は、結局のところ社会における人間集団の共通性に直結していますよね。同じ日本人同士でも、あまりに言語感覚が違っていると、その社会集団には入れないということにもなります。ぞくに「世代ギャップ」などと呼ばれているものも、突き詰めてみれば、語彙の差異、解釈の差異、言語感覚の差異という点にいきつくのではないでしょうか。

鈴木:考えてみれば、人間の基本的な精神とか感情とか、変わらないものも中心にあるのに、言葉、服装、時代概念など、世代単位的にどんどん変わって行く面があることを不思議に思います。「およろしくってよ」なんて言葉を使う女性はもういないのではないかと思いますが、どうでしょうか? ぼくは、「凄くきれい」、という時、副詞は、「く」でとめると思って育ったら、今では若者は「凄いきれい」と「い」でとめます。なるほど、言葉による差違が大きく作用しているのですね。

加藤:ところで、私が言葉に頼りすぎてはならないと思う理由を、ここまでのあなたとの対話を通じて以下の5点に要約することができます。
1.同じ具体語でも、その言葉が指し示している「モノ」はつねにあいまいだ。
2.概念語の場合、具体的な事物との照合ができないから、さらにあいまいだ。
3.述語が文全体を支配し、たえず揺り動かしており、「文」はあいまいだ。
4.言葉のカテゴリーの境界線は不可避的にあいまいだ。
5.「語」「文」の裏に別の意味が隠されていることがあるから、そのままでは受け取れない。

鈴木:ぼくなどは、言葉に対する問題意識が鮮烈ではなく、ぼんやり考えていたので、言葉による相互理解は可能でもあるし、不可能でもあると思っていましたが、あなたの今回の、問題意識が濃厚な発想と分析、検討によれば、言葉の「あいまいさ」というものは相当なものですね。認識を新たにしました。

加藤:詐欺師はもっぱら「言葉と文があいまいだ」という事実にのっとって仕事をしています。たとえば、振り込め詐欺などで騙された人は、「つい犯罪人を信じてしまった」というでしょうが、その人は自分から積極的に「言葉作り」「言葉の意味作り」をおこなったのだと思います。彼は他人にだまされたのですが、それ以上に自分自身のイメージと言語にだまされているのです。そしてさらにこの考えをたどっていうなら、詐欺師もまた手品師と同じように、相手の想像力や思考のパターンを利用して彼らの仕事を進めているのだ、と思います。つまり、だまされる人間が「自分自身をだましてしまう」というこの力学を使ってです。

鈴木:言葉は所詮「あいまい」なのだ、という醒めた認識を持たないで、言葉は「伝え合える」という素朴で楽観的な立場を取っていると、その「楽観信仰」を逆手に取って犯罪者がニンマリするわけですね。注意しなければなりませんね。ぼくは手品を見る場合、種明かしを要求する心理がまったく分りません。ウットリとだまされたいし、それで十分です。しかし、こと言葉に関しては、犯罪がからんで来るので要注意なのですね。政治家は言葉を使って、有権者や反対者を感心させたり、説き伏せたりしなければならない職業ですが、かつて、ヒットラーの甘美な大演説が、ドイツ国民のねじれた劣等感を癒し、好戦性をかき立てた例もあることですから、政治演説についても、眉唾意識を忘れてはならないということですね。

加藤:まったくその通りですよ。詐欺師は、自分がやることを知っており、意図して人をだまします。しかし、善良な人がだまそうと思わずに、自分でも半ば自分のいっていることを信じながら言葉を口にし、結果としては自分自身をだまし、相手をもだましてしまうことが多々ある、と私は思います。善意に解釈すれば、政治家は詐欺師というよりは、この人々のグループに入るわけです。つまりこの場合には悪意がなく、結果的にだましたほうも、まったく意外な結果に終わる、ということになります。たとえば、恋愛は自分で自分をだましていくゲームではないでしょうか。

鈴木:なるほど、恋愛は自分をだまして行くゲームですか。ぼくは常々、若いひとの恋愛が、素性、脳の程度などの分っている小中高の同級、同窓生相手に実らせる例よりも、お互いの素性がまったく分らない大都会などの偶然な出会いに頼っていることに、不思議な感慨をおぼえて来ました。これは全世界でも同様な傾向ですよね。何か、生物学上の作戦が潜んでいるのでしょうか。例えば、狭い範囲で交配を繰返すと、遺伝的にまずいことが起きるので、それを避けるためとか。ともかく、互いの素性が分らないのに、不思議な恋愛期特有の「結晶作用」によって、慎重とは言えないあわただしい感情で、結ばれたり、同棲したり、結婚したりする例が多いですよね。そうなると、時に、「このヒトは素敵に違いない」という幻想にすがり、それが裏切られるシーンに直面しても、「いや、自分の選択は間違っていなかった」と「自分をだましてゆかなければならない」局面があるかも知れませんね。あなたの言う「だます」という意味はそう言うことでしょうか?

加藤:その通りです。こうした点で悲・喜劇的様相を呈する舞台は「結婚」だと私は思います。そもそも男が「結婚」に期待するものと、女性が「結婚」に期待するものがちがっている、・・これは充分にありえることです。それはともかくとして、二人が育った環境の違い、習慣の違い、要するに文化的パラダイムの違い、・・これらが日を追って明らかになっていく過程、これが結婚して間もなく、男女がいやおうなしに体験するプロセスではないでしょうか。

鈴木:そうかも知れませんね。結婚となると、同居についての強制力があるので、「見込み違い」の幻想がはがれ落ちていっても、そこから一挙に逃れられないですからね。プロレスでは相手と手首を鎖でつながれて、狭い檻の中で闘う「デスマッチ」というのがありますが、「悲劇的な結婚」というのは、このデスマッチに似ているように思います。

加藤:よく男女の「性格の違い」という離婚理由を聞くことが多いですが、実際には「言葉の違い」「埋めることのできない意味の偏差」が原因ですね。それほどまでに、一つの言葉をめぐっての価値観の違い、意味の違い、パラダイムの違いを調整することが難しいのです。言葉の意味についての両者の取り違い、理解の程度の違い、その言葉の背景にあるパラダイムや価値観の違い・・これらが抜きがたい障害として人間同士の間に横たわっているのです。みな各人が自分の解釈、自分の受け取り方や感じ方こそ正しいと思い、相手の方が間違っていると感じます。そしてそう思っていることを、ときおり馬鹿正直に口に出していってしまったりするのです。

鈴木:男女のトラブル、人間同士のトラブルは、感情の行き違いからかと思っていましたが、あなたの分析によって、言葉自体の持つ機能から来る可能性があることが理解出来るようになりました。

加藤:ですからお互いが仲良く、平和にやっていくためには、各人が各人のパラダイムにもとづく言語世界を持ちまわっている以上「自分のそれと相手のそれとは違うかもしれない」と考えてみる必要があり、ときには自分の解釈や理解にこだわらずに、相手の言い分を聞き分けることが必要なのだと思います。また、話が行き違っているようなとき、「もしかしたらわれわれは同じ言葉を、違う意味に使っているかもしれない」、と互いに反省する気持ちが必要なのだと思います。

鈴木:なるほど、言葉についてのあなたのご示唆は、今までのぼんやりして常識を完全に打ち破ってくれたようです。で、今日の「象徴語/文」について、ぼくの連想を少しばかり付け加えてよいでしょうか?

加藤:もちろんです。どうぞ。

鈴木:といっても、ぼくの連想が、今日のあなたの言われる「象徴語/文」のシステムとぴったり同じかどうかはわからないのですが。さて、あなたは今回、ある言葉が、時として A「オリジナルな意味/基底部」を持ちながら、その上にB「何かを象徴する/暗示する/隠喩する/イメージ/添加部」を持つと、AはAでありながらBに見えてしまう、と言われました。例えば「太陽」の場合、Aは「核融合を続ける巨大な無機物」ですが、温帯以北のひとにとってのBは「心地よさ、明るさ、希望」が一般的イメージでしょう。しかし、熱帯や砂漠のひとにとってのBは、「激情、破壊、絶望」のイメージであることすらありましょう。つまり、同じケーキでも、スポンジの上に苺と生クリームをかぶせるのと、マロンとチョコレートをかぶせるので、違った名前のケーキになるようなものですね。このようなAとBの二重構造をキリスト教に当てはめてみたくなる誘惑に駆られます。

加藤:ほほう、なるほど。それをぜひ聞かせてください。

鈴木: Aにあたるのは「イエスというナザレに生まれたユダヤ教徒。ユダヤ教の因習と差別の部分に激しく反抗し、ユダヤ教の神とすべての人間の間の真摯な結びつきを叫び続けた。進んでみじめな処刑死を選び、死んだ。彼の墓から遺体が消え去った。生理的には普通のひと」。しかし、彼の叫びはひとの心を打ち抜き、その後いろいろのBが形成された。すなわち、「彼の思想は正しかった。彼こそは古くから預言されていた救世主だった。彼こそは神だった。この神に人生と死後を見守ってもらいたいものだ」とか、「彼は偉大なひとだった。しかし、神ではなかった」とか。あとの方は、激しい教理闘争によって「異端」として抹殺されました。もし、あとの方が勝利したら、キリスト教はまったく別物になったわけですから、Bの果たす役割は大きいと思います。

加藤:なるほど。おっしゃることはよくわかりました。あなたのお話が私の「象徴語」あるいは「象徴文」に重なっているかどうか、私にもよくわかりません。おそらく、あなたのお話は「語」や「文」を超えた「事績」と「事績の解釈」という点に踏み込んでおられるのだと思います。この「解釈」の問題については、これからさらに検討していきたいテーマです。それでは今回はこの辺で。

   
←第8回へ 目次へ 第10回へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.